其の169 口財布


 我々の常識からするととんでもない風習があるもので、たとえばよく知られているものではミャンマーの首長族がある。彼女らは五歳の頃から真鍮の棒を首に巻いてゆく。そして十五歳くらいになるとだいたい大人と同じくらいの首の長さになり、その後は一生首輪をはずさないとのことである。ここでわたしが気になるのは最初に真鍮の棒を首に巻こうと提案した人はどんな人だったのだろうかということである。わたしが思うにそういうことをやろうと言った人はこんな人である。
「無軌道な若者」
 猫で言うと、
「みゅきどうにゃわきゃものだにゃあ」
 である。
 別に猫で言う必要はないが、そういう人だったように思える。彼ら無軌道な若者はその行動原理の殆どが「かっこいい」か「かっこ悪い」かで判断している。合理的な目的のない風習をはじめた人は、それが合理的でないがゆえに、そこにファッション性を求める。つまり「かっこいい」か「かっこ悪い」かだ。
 すべては道端に真鍮の棒が落ちていたことから始まった。
「これは何だろう?」
 最初に真鍮の棒を拾った者は考える。しかし彼にはどう考えても何の為の棒だかわからない。そこで彼は村の長老たちの元へ真鍮の棒をもってゆく。
 長老の一人が真鍮の棒を摩りながらおもむろにこう言う。
「こう使うんじゃないか」
 長老はゆっくりと真鍮の棒を額につける。
「鹿」
 座に緊張感が漂う。
「いやいや、そうじゃあるまい」
 別の長老がさきほどの長老から真鍮の棒を奪い取り、今度はその棒を耳の上に乗せる。
「五枠から総流し」
 さっきよりも深い沈黙が座を占拠する。
「わかってないな」
 ずっと沈黙を保っていた最長老がゆっくり立ち上がり、そして真鍮の棒をV字型に折り曲げる。
「こう使うんじゃよ」
 そうして最長老はV字型に折り曲げられた真鍮の棒を腰の辺りで持ちあたりをふらふら歩く。
「ダウジング」
 おお流石最長老じゃ、そんな溜息にも似た呟きが他の長老たちの間で広がる。しかし一人の若者が立ち上がり最長老に向かって叫ぶ。
「そんな使い方は古い」
 最長老の意見に真っ向から対立した初めての人間だ。周りは緊張している。
「じゃあ、お主はどう使うのがいいと思うんじゃ」
 若者の額にうっすらと汗がにじむ。彼は真鍮の棒を丸く曲げて言った。
「首に巻けばいいじゃん!」
「そしていっぱい巻いて、首伸ばせばいいじゃん!」
「それが俺たちが生きている証じゃん!」
 無軌道な若者がこんな合理性のない風習を作ったのかもしれない。
 またある本を読んでいるとこんな記述に出会った。
「庶民は大抵貧乏人で、巾着など持たない連中が多かった。しかし古代のギリシアでは食料の買出しは亭主の役目だから小銭は必要だったのである」
 古代ギリシアの風習について書かれた本だったのだが、問題は次の箇所だった。
「そこで彼らが巾着代わりにしたのが自分の口で、両頬の裏側のふくらみに小銭を入れて出歩いたのである」
 古代ギリシアでは口を財布代わりにしていた。衝撃の事実である。ソクラテスだってプラトンだって口に小銭を放り込んでもごもご言いながら「悪法と言えども法は法」だの「イデア」だの「アカデメイヤ」だのと言っていたわけである。口に金を頬張りながら産婆術。そんな輩に「汝自身を知れ」だのと言われていたのである。正確に言うと「ぅわんぢ、ひひんを、ひれ」だのと言われていたわけである。古代ギリシアの民衆は。なんて奴らなんだ。恐るべし古代ギリシア人。
 こんなわけのわからない風習であっても一応理由らしきものがあって、当時巾着を持ち歩いていると掏摸に狙われてしまうからだというのがその理由らしい。巾着を持っているということはすなわち金持ちであるからどうしても掏摸に狙われてしまう。そして当時の掏摸はかなりの腕前であったようで相手が気づかないうちに巾着に穴を開け金を盗んでしまう。そういった掏摸対策上仕方がないということもあったようだが、だからって口に入れることはないじゃないか。口に鉄の味が広がるし、正確に喋ることができないではないか。
 そしてやはり気になるのは最初に小銭を口に入れた奴である。何を考えていたのだろうか、口に小銭を放り込むなんて。かなり無軌道な奴に違いあるまい。
 これまで掏摸に大事なお金を盗まれた人たちが集まって相談している。
「ぎゅっと手で握っていればそうそう盗まれないはずだ」
 ふうむ、たしかに、そういった声も聞こえる。
「でもそれだけでは不充分だ」
 先日も掏摸にやられた男が言う。
「ぎゅっとお金を握って腕をぐるぐる回せばいいと思う」
 おお、そうだそうだ、そうすれば絶対盗まれないにちがいない。人々はざわめく。
 また別の男が前に出てきて言った。
「でも人がたくさんいるところでは危険じゃないか」
 折角の提案も一瞬で色あせる。いくらお金を盗まれないようにする為であっても、さすがに危険過ぎる。
「それに腕をぐるぐる回しながら歩くのは馬鹿に見えはしないか?」
 たしかにそうだ。腕も疲れる。
 皆それぞれ意見を出し合うがどうも決定打がない。
 そこへさっき掏摸にお金を盗まれたばかりの若い男が出てくる。
 彼は皆に向かって叫ぶ。
「口に金、入れればいいじゃん!」
「そして鉄の味、噛締めればいいじゃん!」
「それが俺たちが生きている証じゃん!」
 やはりここでも無軌道な若者だ。
 とんでもない風習を守っている人々以上におそろしいのは無軌道な若者である。
 こうしている今も無軌道な若者たちはとんでもない文化を作っている。


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