其の168 まずはバックミラーから始めよ


 先日車検をやってもらった。やはり走行中の故障によって人を轢いてしまうことだってあるわけだからいくらお金がかかろうがやらなければならない。ましてや走行中ハンドルがぽこっと外れてしまいあわあわいってるうちに人を轢いてしまったらどう言い訳すればいいのだ。
「轢いてしまってすみません、本当に申し訳ありません」
「うぐぐぐぐ、あう、い、痛い」
「だ、大丈夫ですか? すぐ、すぐに救急車を呼びますから、しっかりしてください!」
「げぼっ、そ、それはいいけど、どうして急に、カーブし、したんだよ……」
「ハンドルが外れました」
 轢かれた人だってそんなコントみたいなことが原因だったらやり切れないだろう。
 そういうわけで車検の予約の為近くのガソリンスタンドに行った。そのガソリンスタンドに到着し従業員に車検をしてもらいたいとの旨を伝えると、ちょっとした待合室のようなところに案内された。その従業員はあらかじめ車を調べてみてどれくらい費用がかかるか調べてくるとのことである。わたしはどれくらい費用がかかるのだろうと漠然とした不安を抱きながらテレビを眺めていた。しばらくするとさっきの従業員が戻って来て何だかあきれた顔をしながらわたしに言った。
「がたがたですよ」
 そして続けて言った。
「ぼろぼろです」
 がたがたにぼろぼろだ。車の状態のことを言われているのはわかっている。しかしわたしに向かって「がたがた」で「ぼろぼろ」はないだろう。それもあきれ顔で。何だかわからないが腹が立ってくる。そこでつい言わなくてもいいことを言ってしまった。
「そんなことないでしょう」
 自慢じゃないが車のことはまったくわからない。十年近く車に乗っているわりに車に関してあまりにも無知なのである。車種のことはもちろん車の部品のことなどまったくわからない。車のエンジンの部分を見て思うのはいつもこうである。
「なんだかいっぱい詰まってる」
 どの部品がどういう意味をもっているかなどまったくわからないのである。ブレーキだってどういう原理で作動しているかなどわからない。あんなペダルを踏んだだけで車が停まるなんて不思議だと思っているくらいだ。
 話を戻そう。わたしの言わなくてもいい一言でガソリンスタンドの従業員はむっときたようだ。どうせ何もわからないくせに、そういう顔をしている。ああ、どうせわからないよ、バッテリーだのエンジンオイルだの言われたって何のことだかさっぱりさ、俺は車に関して何も知らない、あんたは知ってるだろう、整備士をやっているくらいだから車が好きなんだろう、でもな、車のことをまったくわからないこんな俺でもあんたにこれだけは言える。
「ギターのFは結構うまくおさえられる」
 そんなわけのわからないことを考えていると従業員はこっちに来て実際見てください、そう言った。わたしは憮然とした態度で従業員の後を追う。
 ボンネットを開け彼は説明する。
「まずね、オイルを見てください、こんなに汚れてるでしょう。それにもう殆どない。それにね、このバッテリーの横がこんなに膨らんでるでしょう、これはもうバッテリーがかなり大変なことになっている證拠です、後ですね……」
 もうたくさんだ。何が何だかもうわからない。実際に見たってわからない。そんな早口でまくしたてられたら余計わからないじゃないか。だからといってゆっくり丁寧に説明されたら何もわかっていない自分が余計惨めになるだけだ。わからない。ああ、どうせ俺はわからないさ、車のことなんて全然わからないよ、走りゃいいだろ、車なんて、ブーブーいってさ。
「……それでですね、ここの部分は交換しておきますか? 車検自体は通りますけど」
 そのときのわたしの頭の中はエンジンだのブレーキパットだのオイルだのギターのFだのがぐるぐると回っていて何も考えられない状態であった。
「で、ブレーキパットはどうされますか? ATFはどうされますか?」
「いりません」
「へ?」
「そんなものいりません」
「でも、ないと動きませんよ、車」
 従業員はわたしのことをかなり馬鹿だと思っているに違いないのである。何故客であるわたしがこんなに惨めな思いをしなければならないんだ。そのときのわたしはちょうどかつてわたしが塾の講師をしていた頃出会った頭の悪い生徒と同じであったのだろう。問題の意味もわからないし解き方もわからないし説明だってわからない。ゆっくり説明されたってわからない。そして塾講師のあきれ顔だ。因果応報という奴なのか。
「まあいいですけど、結局どうしますか?」
「……全部やってください。全部新品に交換してください」
 もうどうにでもしてくれ、そんな気持であった。
「じゃあ見積もりを出しますのでちょっと待っててください」
 そう言って従業員は去っていった。
 後日車検の終った車を取りに行くとこの間の感じの悪い従業員がわたしに言った。
「特別車検でしたので粗品を後部座席に乗せときました。それじゃありがとうございました」
 わたしの頼んだ車検はかなりハイレベルなコースだったようだ。従業員だって何もわかっていない人を騙して高額な車検を受けさせたのだから流石に気が咎めたのだろう。後部座席にかなり大きな段ボールが二つ詰まれていた。後部座席はそれだけでいっぱいである。家に戻ってその段ボールを開けてみるとティッシュペーパーが大量に詰まっていた。全部で五十箱くらい入っている。こんなにティッシュペーパーをもらってどうするのだ、そんな段ボール箱が部屋にあったって部屋が狭くなるだけじゃないか。最後の最後までどうしてこんなに惨めな思いをしなければならないんだと腹が立ってきた。
 そして思ったのはやはり車のことを知らなければならないということである。無知であることは負けだ。今回の事件がそれを證明している。次の車検のときまでしっかりと車のことを勉強しよう、そう段ボール箱二つに誓った。
 まずはバックミラーからだ。


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