其の85 大人として


 わたしの家の隣に中学校があるのだが、出勤時間が昼過ぎということもあって彼ら中学生の下校時間と重なることがある。マンションの敷地内は基本的には通学路としては認められていないのであるが、中学生というものはそういった社会的規範を遵守するはずもなく、堂々とわたしの車が置いてある隣を通り過ぎてゆくのである。先日いつものように駐車場へと向かってゆくと、二人の中学生男子が丁度わたしの車の横あたりを歩いていた。
「暑っついなあ」
「うん」
「めっちゃむかつく」
「そうだね」
「鬱陶しいのお、これも全部全部お前が悪いんぢゃ」
「そんなこと言われても……」
「ああ、ムカツク。いい加減にしとけよ」
「……」
「俺の後ろ歩くな」
「だって……」
「近づくな。取り敢えず俺の後ろ歩くな」
「だって、家の方向こっちだし……」
「ぢゃあ家動かせ」
 これがもしかすると苛めの現場というものか。こういうとき大人としては如何なる態度をとるのか適切か、まだ活動を始めていない脳味噌をフル回転させるが、家を動かせという中学生のあまりの理不尽さにわたしの脳味噌もプスンプスンと回転が止まりがちである。つまりは笑ってしまったのだが、仕事場に到着してから、あのまま放っておいて良かったのだろうかという後悔の念が湧いてきた。もしかするとあの少年は今頃彼の住居の大黒柱あたりにロープを括りつけてうんうんいいながら家を背負っているのかもしれない。それをにやにや笑いながら「早く動かせよ、おらおら、ちんたら担いでんぢゃねえよ」などと少年に蹴りを入れている苛め少年の姿も浮かぶ。わたしの顔はハンサムさを保ちながらも青ざめていた。こうして呑気に仕事場でアイスコーヒーをすすりながらサンドイッチを摘まんでいる場合ではないかもしれないのだ。呑気に先程買ってきた小説のページを捲っている場合ではないのかもしれないのである。そして何より髭なんか剃っている場合ではないのかもしれないのである。本来は家で剃っておくべきなのだ。再び少年の姿が脳裏に浮かぶ。まだ少年は背負っているのかもしれない。そしてロープががっちり食込んでいる為肩にロープの跡がついていて、「この、縄文野郎」などと拷問を受けているかもしれないのだ。ごめんよ。お兄さんはこれから仕事だし読みかけの小説も手が放せない。そして何より食事中だ。次に君が苛められている現場に居合わせたときには食事に行くだとか遊びに行くだとか本を買いに行くなどといった危急を要する用事がない限り、そして君を苛めている人達が強そうでない限りにおいて絶対に助けてやるからな。ごめんよ縄文君。
 しかしわたしは税金を払うといったこと以外に大人としての義務を果たしていないような気がする。大人というのは二十歳を越えているというだけではいけないのである。馬鹿のように煙草を喫っているだけではいけないのである。堂々とアダルトビデオを借りたりするなどは以ての外なのである。先のように苛めの現場を目撃したならば「ほどほどにしとけよ」と必死で説得するくらいの気概をもってこそ大人としての義務を果たしているといえよう。ではこのように大人の義務を果たす為には何が必要なのであろうか。
 まず周りの人間から「大人だね」などと言われるようではいけない。本当の大人に対して「君は大人だ」という確認はされないのである。譬えば子供が意外としっかりしたことを言ったりする。そうすると周りの大人は「ぼく、しっかりしてるねえ。もう大人だねえ」などと言う。これは彼を子供であると認知しているから「大人だ」と言うのであって、事実「君は大人なんだから税金を払いたまえ」などとは言われないのを考えてみても解る。また普段周りの人間から「大人だねえ」と言われなくなっても油断してはいけない。やや惚けた祖母に会ったときに「あらあ、まあ、大きなって」などと言われるようではまだまだなのである。たとえ相手が惚け老人であっても「大きなって」などという言葉を封じ込めるくらい貫禄を持たなくては大人であるとは言えないのである。
 また子供がすれば許されることを未だに許してもらっている、もしくは許されていると思い込んでいるようでは大人としての義務など果たすことはできない。夜尿症は勿論、哺乳瓶を片手に歩いたり、おしゃぶりを咥えながら眉間に皺を寄せたりしてもいけない。また学校に通っているようでは大人であるとはいえないし、学生服やセーラー服で町を徘徊したりするのは逆に大人かもしれない。
 そして最も重要なことは大人としての風格を身に付けなければならないことである。いくら付け髭をしてスーツで身を固めていようと小学生が「えー、チミチミ。弱いもの苛めをしてはいけないよ。チミのやっていることは必ずチミにかえってくるのだよ。これを仏教の世界では因果応報といってな……」などと言っても弱いもの苛めをしている中学生の嗜虐心をより一層強めるだけであるし、なんなら自分が苛められるのである。大人としての風格がなければ社会規範を守るといった大人としての義務など果たせようもないのである。では大人としての風格とは何か。これは何事にも動じないよう感情をコントロール出来るということではないのだろうか。やはり狂暴な中学生におどおどしている人が苛めを止めさせることなどは出来ないだろう。たとえ恐怖におののいていてもそれを隠して堂々とした態度で彼らに接しないといけないのである。
 当然恐怖以外の感情も表してはいけない。レンタルビデオ店のアダルトコーナーで中学以来の同級生に出会っても懐かしさのあまり声をかけてはいけないし、ましてや彼の手にしたビデオが今日の獲物であったりしたときに悔しがってはいけないのである。また仕事上で上司による理不尽な説教に怒ってもいけない。その怒りを心の奥底に押し込めて犬に怒りをぶつけるようにしなければならない。
 また味覚に対しても大らかに対応しなければならない。酸っぱいからといって目を細めたりしてはいけないし口を窄めたりしてもいけない。苦虫を噛みつぶしたような顔をするくらい感情をコントロールしなければ大人とは言えないのである。また苦さに対しても強くなければならない。粉薬を飲んだとき一気に喉の奥に流し込むつもりが手元が狂って舌の上にばっさりとのっかってしまっても平然と苦虫を噛みつぶしたような顔をするくらいの度量が欲しいところだ。そして辛さに対しても強くなければならない。いくら辛かったといっても食事の後一時間も「辛ひー、辛ひー、めっちゃ辛かった」と言い続けてはならないし、ましてやその人が巷でカレーが大好きな大阪人二人の内の一人としてのステータスを築きあげているのなら尚更カレーを喰った後で「辛い、辛い」と後輩の前で言ってはならない。むしろそういうときこそ平然と苦虫を噛みつぶしたような顔をしていなければならないのである。また美味いものを口にしたときもその美味さににんまりしてはいけない。譬えそれが「インディ」の「カツカレー大盛りチーズトッピング」であっても苦虫を噛みつぶしたような顔をしてにんまりと微笑まなければならないのである。
 このように大人の義務を果たす為にはそれ以前に大人としての風格を身に付けなければならないのである。しかし最後のカレーを喰って苦虫を噛みつぶしたような顔をするというのは今のわたしには難しいように思える。つまりわたしは大人としての義務をしっかり果たすくらいの人物になっていないのである。
 だから縄文君よ、わたしがもう少し大人になってから苛められてくれないだろうか。


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