其の83 ある朝突然に


 そういう場面に出くわすとは、考えたことさえ無かった。まさに起きてみるとこれまで考えたことすらなかったことがわたしの身にふりかかっているのである。乳首が痛い。乳頭が非常に痛いのである。乳頭の痛みわ、へへへ、鶴光でおま、と言われかねない程の痛みである。青白い顔が更に青ざめてゆくのが解る。も、もしや乳癌では。漫画ではここで「ガーン」という効果音が描かれるような場面である。しかし何故か懐かしい痛みなのであった。この痛みはかつて経験したことのある痛みだ。暫く考えてみるとそれはわたしが今よりもずっと若く、美しかった中学生の頃に経験した乳首の痛みに似ていることに気付いた。所謂成長期に乳腺が張るというものか。こんな年齢になってもそういうことがあるのかどうかは解らないのであるが、仕事に行かねばならぬ、その思いから楽観的に乳腺が張っていることにして、ベッドから抜け出した。
 アイスコーヒーの入ったグラスを片手に、痛みを堪えながら自嘲的に笑う。気分はフィリップ・マーロウである。その痛みが乳頭の痛みであるのが唯一悔やまれるところであるが、起き抜けのわたしにはそんな些少なことは気にならない。数分、まとわりつく犬を横目にぼうっと過したあと、徐に誰もいない部屋で「さあってと、お風呂でも入ろっかなあっと」と呟きというにはあまりに大きな声を発しながら風呂場へと向かった。
「きゃああああ」
 殺人事件を目撃した女性のような金切り声をあげたのは、風呂場の蛇口から水が出ないからであった。陰茎を振り振りしながら他の水道からも水が出ないことを確認しに部屋中を駆け回る。どこの蛇口からも水が出ないのである。もしかしてわたしはこのまま歯も磨けないまま風呂にも入れないまま朽ちてゆくのか、そう真っ裸のまま途方にくれているとテーブルに「水道管工事について」という紙切れを発見する。そ、そうだったのか、原因が解ると途端に安心する。しかし風呂には入らねばならぬ。そこで近所にあるリゾートセンターへ行くことにした。
 ホテルマン風の従業員が恭しくゲタ箱のキーを渡す。何故か恐縮しながら料金を払い、そしてロッカールームへと向かう。今日二度目の真っ裸となり風呂場に入ると、広々とした空間が目に入る。午前中ということで人もまばらである。わたしのような青年の姿はなく、定年を過ぎた爺さん達がぼうっと湯につかっていたりする。生きているのかも解らないような爺さんの姿もある。わたしは髪と体を洗い、そして様々な効能のある湯船を物色しはじめた。
 まず目に入ったのが「トロン湯」である。トロンって、なんだ、東大の誰某が作ったあれか、などと考えながら効能なんぞを読み始める。ええと何々、ドイツのバーデンバーデンで発見されたトロン湯は太古よりヨーロッパの貴族などに親しまれてきました、云々。おお、由緒正しい温泉なのだね。気分は王侯貴族って奴か。効能はと、ええと、肩こり、傷を癒す、素肌を作る、ええと、ん? なんだ、「転び」ってのは。転ぶのを防ぐってのはどういうんだろ。転ぶ前に石を動かしてしまう超能力でも身に付くのかいな。しかし温泉につかりながら効能を読み上げている自分はなんだかうさぎちゃんのようである。
 次に「延寿湯温泉」に入ろうとする。しかし湯が黒い為底が見えないのである。もしかしてそのまま、ぶくぶくと沈んでゆくのではないかという不安が頭を過る。気味が悪いので別の湯船へと向かう。
 「ラドン湯」。これなら聞いたこともあるので安心である。効能を読みながら足を湯船につけようとしたとき、「妊娠中の人は御遠慮してください」との文字列が目に入る。げ、妊婦の体を壊すような風呂は危険ではないか。そう考え「ジェットバス」へと移る。お、これは気持ち良いぞ。底から泡が吹き出しているのが心地好い。あまりに気持ち良いのでそのまま目を瞑る。頭の中では色々なことが浮かんでは消えてゆく。小学生の頃に買っていたハムスターのピー助は、雌のハムスターに咬まれたのが元で死んだんだよなあ、ああ、可哀想なことをしたなあ、あれは友達の坂本君がピー助は雄だからといって雌のハムスターを呉れたんだよなあ、でもピー助は実は雌だったんだよなあ、雌同士だから喧嘩して、体の小さなピー助は沢山咬まれたんだよなあ。その晩は眠れなかったなあ。段々と衰弱していって、夜中の一時頃徐々に体が冷たくなって……い、いかーーん。これではバッドトリップではないか。別のこと別のこと。ええと、そういえばコンピュータの調子悪かったよなあ、あれは多分Linuxインストール中に猫がキーボードを悪戯したのが原因かもしれないなあ、そうかあ猫かあ、そういえば昔隣の家も猫を飼ってたよなあ、そのとき家のハムスターのピー助が逃げ出して、慌てて隣まで行ったよなあ、たしか隣の家の風呂場にいたんだよなあ、ピー助、ピー助、……い、いかーーーん。どうしても思考はピー助の方へと向かうのである。
 湯船から出て、暫くピー助の思い出に浸っていると、つかつかと爺さんがわたしの元へやってきた。
「おにいちゃん、大丈夫か、なんや顔色悪いで」
「いえ、大丈夫ですから」
「いや、ほんま顔色悪いし、貧血やったらあっちに水風呂あるしなあ」
「いえ、ほんと大丈夫ですから」
「ほんまに大丈夫か、貧血とちがうんか」
 ほんと小さな貧血、大きなお世話である。折角ピー助の思い出に浸っているのにぶち壊しである。
 風呂場から出て着替える。ゆっくりとした歩みでリゾートセンターから出ようとすると従業員が恭しく礼をする。外は真昼間である。そうだ、これから仕事だったんだ。いきなり現実に戻され、風呂での心地好さが吹き飛ぶ。そういえば小林じんこの漫画に「風呂上がりの夜空に」ってのがあったが、やっぱり風呂上がりのすっきりした体でそよ風に当たりながら家路へと向かうというのは最高だよな。しかし外は真昼間。これから仕事だもんな、ああやだやだ、このまま夜になってしまえばいいのに、なあピー助。などということを考えていたりするとピー助の顔が突如職場の上司の顔に変わって言うのだ。
「じゃああんた馘首ね」
 こういうのはあまり考えたくはない話である。


[前の雑文] [次の雑文]

[雑文一覧]

[TOP]