其の53 生きててすみません


 誰だって自分が価値のない人間だと思うことがある。そう思う人間に限って本当に価値のない人間なのだからどう慰めてよいか解らないものである。
「嗚呼、俺には生きている価値なんかないんだ……」
「そうね、たしかにあなたね、生きてる価値ないのよね」
 などとマギー司郎の物真似で言うと大概殴られるのだから、その人が自分のことを価値がないなんて思っているのは嘘である。価値のない人間だったらマギー司郎の物真似くらいでは怒りだす訳がないのであるが、殴られる原因が厳しい現実を見せつけたからか、物真似が似ていないからかは解らないが、兎に角、「あなたに生きている価値なんかない」と正面切って言うと大概殴られるものである。自分で価値がないと言うからそれを素直に認めてあげたのに殴られるのは馬鹿らしいのでこういうとき殆どの人間は「そんなことないよ」と慰めるのである。
 わたし自身は価値がない人間なのだなあと自他共に認める駄目人間であるので、深刻な顔をして「俺は駄目だ」などと言うことはないのだが、それでも一年に数回心底「駄目だ、駄目だ。俺は駄目人間だ」と他人からすると自己確認としか思えないようなことを呟くことがある。
 それはカレーを喰っていて、カレーのルーがワイシャツに付着したときである。このときばかりは流石に社会人として情けなかった。こんなことでいいのか、と深刻な顔をしてカレーを喰う手が止まった。いい年をしてワイシャツにカレーがついているのだから、どう言い訳して良いか解らないではないか。
「それどうしたんですか?」と言われたら、
「カレーを食べたもので」としか返答出来ないではないか。それにそういう解りきったことを訊ねるのも嫌味だ。どう見てもカレー色にしか見えない染みを、歯磨き粉が付いただとか、泥が飛んできたとか、コーヒーだとか取り繕うことなど出来ないのである。そんなシャツを着て街を歩けば周りの人の全てが「カレーついてる」と考えていそうで、走って逃げ出したくなるものである。どうせ付いてるよ、と飲屋に入って気の済むまでアルコールの海に溺れたくもなる。
 あとカレーを喰ったあと、ティッシュで口を拭うときも生きててすみませんと考えてしまう。祭りの後の寂しさとでも言うのだろうか。美味いものを喰ったのにもかかわらず、口を拭わなければならないのである。口の周りを拭うという行為には人の身分や出身、金持ちであろうが貧乏であろうが、無関係に情けなくなる行為だと思うのである。生きている価値がないと落ち込む瞬間はわたしにとってはこういうときなのである。
 これだけのことで自分が情けなくなるのであるから、他人に対しても厳しいのは当たり前である。
 ロックスターがギターを弾きながらシャウトしている。今日は野外コンサートだ。彼はシェゲナベイベエーなどと叫んでいる。観客も興奮している。そんなとき彼の逆立った頭髪の先にカナブンが止まったりしたら、彼にはシャウトする権利などないように思う。如何に大層なことを言っても、社会に対する不満をメロディーに乗せようとも、カナブンが彼に止まっていたりすると興醒めだし、彼には生きている価値などないと考えてしまう。
 またノーベル賞の授賞式である。彼の研究は物理学の常識を根底から変えてしまう程のインパクトがあったのである。彼の研究によって恒久的な平和は勿論、食料問題、大気汚染、森林伐採、カツラがずれ落ちるときの羞恥心など有りと有らゆる問題が解決してしまうのである。彼の姿がスクリーンに映し出される。堂々とした足取りで中央へと向かう。そして彼がマイクの前に立つ。そのとき彼の顔がスクリーン一杯に映し出される。ここで彼の右頬の大きなホクロから毛が一本にょろりと出ていたら駄目だと思う。彼の業績は全てチャラになるように思えるのである。
 このようにどんなときでもどんな人物でもその人間の価値が失われるときがあるし、価値がなくなったと思える瞬間があるものなのだ。
「嗚呼、俺には生きている価値などないんだ」
「そうあるよ。あなたに価値なんかあるわけないよ。わたし中国は広島生まれあるよ」
 とゼンジー北京の物真似で言われても、それはあなただけのことではないのだから気にしたり、殴ったりしてはいけないのだと思う。


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