其の40 挟まれる


 挟まれているのだ。その男は。しっかりと挟まれているのである。壁と壁の隙間にである。日本の住宅事情は劣悪で、住宅と住宅の間には無理矢理のように壁二枚を置いてあるのが普通の光景であるが、これがいけなかったのである。彼にとっては。いくら狭くっても一戸建の家であるし隣家とほぼ接触していても長屋ぢゃあないのだ、という中流サラリーマンの悲哀というか叫びというか意地というかの所為であるか。彼は挟まれているのである。顔は少し歪んでいる。青ざめてはいるが平静さを取り繕っているようでもある。
 何故彼はそんなところで挟まれているのであろうか。当然浮かぶ疑問である。幾つか考えてみた。

(1)彼は野球選手の補欠である。たまたまその壁にまで飛んできたボールを取りに行くときに思わず飛び込んでみたら今の状況になってしまった。彼の所属するチームは非常に貧乏であるのだろうか。ボールをなくせばキャプテンなりに叱られるのである。しかしこの考えは彼がヴィトンのバッグを持っていることで否定された。ヴィトンのバッグを持ちながら球拾いをする補欠はいない。

(2)実は彼は隙間マニアである。世の中には有りと有らゆるマニアがいる。先の雑文でも書いたが弦マニアだっている。それならば隙間マニアだっていてもおかしくはない。そして隙間マニアの中でも理論隙間学ではなく、経験隙間学を信捧しているのであろう。取り敢えず隙間とあれば挟まってみるのである。しかし彼は二人一組で行動しなければならないという鉄則を忘れたのである。いや忘れてしまう程の素晴らしい隙間だったのかもしれない。それゆえ身動き取れない状態になっているのである。これはあるかもしれない。彼の平静さを見れば挟まれ慣れているようにも見受けられるからである。

(3)彼は最近急に大きくなったのかもしれない。それで自分の体が大きくなったことをつい忘れて隙間に飛び込んでしまったのかもしれない。

(4)もしくはついさっき大きくなったのかもしれない。普段であればなんなく通れる隙間、というよりも道であったのだが、それが隙間を通り過ぎようとした瞬間大きくなってしまったのである。それで顔が両方の壁に圧迫を受けて歪んでいるのも納得できる。しかし周りを見渡しても打出の小槌は見当たらない。それに彼が平静さを保っているのも妙である。誰でも挟まれば慌てるものである。余程肝が座っているのか現状把握能力に欠けた人物で無い限り、挟まれて慌てない人はいない。彼の顔をみるとそれほど豪胆なようにもみられないし、それほど馬鹿にもみえない。

(5)彼はテトリスをさっきまでやっていたので、つい隙間を埋めてみたくなった。これは有り得そうである。この現実と虚構の差異が見られなくなってしまった現代日本においてゲームと現実とを混同する人間がいるのは確かである。quakeやdoomやduke3dといったゲームをしているとつい壁に罅があったりすると蹴ってみたり、消火器をみると銃を撃ってみたりしたくなる。わたしも経験している。であるから彼が自分をテトリスのブロックに見立てて吸い込まれるように隙間を埋めてみたことは有り得ることである。しかし彼にとって悲劇だったことは次のブロックがやってこず一列揃うことは永久にやって来ないことである。

(6)なんとなく。意外にこれが正解なのかもしれない。人間なんとなくやってみたことが大いなる悲劇に結び付くことがよくある。ビー玉をなんとなく鼻に入れてみたら北島三郎になってしまったという人間をわたしは知っているし、またなんとなく頭をかいたらカツラが取れてしまった人間だっている。なんとなく頭がちり毛の友人だっている。そしてなんとなく不安に思って死んだ芥川龍之介という作家もいる。彼もまたなんとなく挟まってみたのかもしれない。

 色々と考えてみたのだが、挟まる瞬間を見ていないし、心理的な問題が原因であるのなら当人以外には解らないのである。当たり前か。それで彼の挟まっている辺りをうろうろしていたのだが、すると彼は徐にバッグから携帯電話を取り出したのである。やはり解決策は警察に救い出してもらうことか。無難な解決策である。少し失望した。隙間に挟まるくらいの大人物であるからもっと奇妙奇天烈な解決策を見つけ出すのではないかと思ったのである。
 「もしもし、ん、ん、俺俺。久しぶり」
 友人か。それならば大事にならなくてよい。警察沙汰にでもなれば新聞に載るかもしれない。
「二十歳、学生、アルカトラズ(隙間)からの脱出」とか
「大学生、栄光への脱出(実は隙間から)」とか
「学生、怒りの脱出(怒っているのは隣家)」
などという見出しをつけられたりしたら自殺ものだ。なるほど友人であれば一時は笑われるであろうが、後になればネタにすることだってできる。
 「ああ、それでねえ。恵子ちゃん、今何してると思う?」
 彼女であったか。しかし何してると思うはないだろう。挟まれてる癖に。
 「内緒。で、恵子ちゃんは何してたの? ふーん、本読んでたのかあ。どんな本? へえ小説かあ。で何の本?」
 わたしは思い切って会話を聞く為近づいていった。
 「ふんふん、安部公房の、ふんふん、ええええええ……」
 電話であるからよく聞き取れなかったのであるが、おそらく「壁」だったはずだ。そして江戸川乱歩であったのならば「人間椅子」であったに違いない。
 そのあと用事があったのでその場を離れたのだが、その後の彼がどうなったのかは知らない。


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