其の35 河豚


 わたしは飲屋にいたのである。向かいには色白細面黒めがちの美しき女性がいるというわけではなく、高校時代の友人である。それも顔には疱瘡のような吹き出物の跡が至る所についており、醜い。わたしと並ぶとさぞ彼の醜男ぶりが際立つというものである。しかしわたしは彼とは気が合い、高校を卒業して十年弱になるが未だに付き合いは続いている。
「で、なあ。相談というのはこういうことなんだ」
 友人はわたしのことを妙に買っており何か相談事があると、取り敢えずわたしに伺いを立てるのである。そしてかつて一度も適切なアドバイスをしたことなどないのだが、それでいて本人は納得しているようなのだ。
「今度のな、同窓会のことなんだが」
「ふむ」
「なんでも幹事の話によると河豚だそうだ」
「河豚?」
「そう、河豚なんだ」
「何がいけないんだ。河豚が嫌いか?」
「いや、そういうわけではないんだ。それだったら簡単だ。喰わなければいいんだから」
「たしかに。それで何が気になるんだ。河豚の」
「このことは他言無用だぞ。お前だから言うのだがな。俺の家は山口出身だと言ったっけ?」
「いや、知らない」
「そうか。山口なんだ。長州藩で禄を食んでいた武士の家なんだが、それが問題なんだ」
「家訓に河豚を喰うなとでもあるのか?」
「なかなか鋭いな。しかし違う。逆なんだ。昔俺の先祖は当時でも秘密にされていた河豚番という職に就いていたんだ」
「なんだ、その河豚番って?」
「うむ、河豚に毒があるのは知っているだろ? 当時はまだ河豚毒がどの部位にあるか正確には解っていなかったから、まあ毒見だ、河豚番というのは」
「ほう、そういう職があったのか。たしか幕末には河豚で死んだ藩士は家が潰されたというくらい、長州藩は河豚を禁止していたはずだが」
「それは表向きだ。やはり河豚は美味いからな。殿様は皆に内緒で喰っていたのだ。しかし殿様が河豚に当たったとなると、面目丸潰れだ。河豚禁止令を出していた当人だからな」
「なるほど、そこで河豚番というのが出てくるのか」
「そうだ、家は代々河豚の毒見役をしていたんだな。それで何人もの先祖が河豚に当たって死んだ」
「それで河豚を近づけたくないのだな」
「そうだ。維新の際、河豚番は御役御免となったわけだが、その時の当主はやはりというか、殿様を憎んでいてな」
「やはりそうだろうな。河豚番という職に就かなければ死ななくてもよかった先祖が多くいるわけだから」
「うん、それでその当主は殿様を殺すわけにはいかないから、代わりと言ってはなんだが、河豚を遠ざける家訓をつくった」
「それはなんとも辛い家訓だな。あれだけ美味いのにな」
「うむ、もう俺の代で一応家訓を捨てようとは思うんだが、父親がな、河豚は喰うなと言って最期のときを迎えたんだ」
「それは致し方ないな。お前は親孝行のたちだから」
「ああ、それで今度の同窓会欠席することにする」
「喰わなければいいんじゃないか。喰わなければ父親の遺訓に反することにはならないだろ」
「いや、それは絶対駄目だ。俺自身、御先祖の血が流れてるんだな。河豚は俺自身にとっても敵なんだ」
「そんな大層なことでもないだろ」
「昔から言うだろ。河豚戴天の敵」
「…………」
「嘘だろ、ここまでの話」
「ああ」
「もしかすると高校時代から付き合っていたK子と別れたのか」
「そうだ」
「……今度、二人で河豚でも食いにいくか」
「ああ」


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