其の179 ジョソ・レノソに棒ぐ


 本日は十二月九日である。この日だけはわたしにとって重要な日である。そう、針供養の次の日であると同時にわたしの誕生日から七ヶ月と六日経った日なのである。この事実からわかることは針を豆腐などやわらかいものに刺してから一日経ったということと、わたしが三十二歳も半ばも過ぎようとしているのにもかかわらずまだ独身であるということである。しかし世の中の女性はわたしを一人にしておくとはなんて騙されにくい人種なのだ。いい加減一回くらいうっかり騙されてもいいのではないか。ブラッド・ピットだのキアヌ・リーブスだの木村拓也だのには簡単に騙される癖にどうしてわたしにだけはそう慎重なのだ。慎重にも程があるぞ。いい加減にしろ。反面こんなわたしに騙されない女性がいる限り日本もまだまだ捨てたものではないのであるが、そうそう今日はジョン・レノンの命日でもある。こんな文章を書き始めて六年にもなるとかなり読んでいる人も変わってきているかと思うので改めて言うが、ジョン・レノンが死んだのアメリカでは十二月八日だが、ちょうどそのとき日本では十二月九日であったので正確にはジョン・レノンへの追悼は十二月九日に行うのが正しいのである。
 早いもので今年でサラリーマンになってから三年目になる。かつては塾の講師として道理のわからぬ中学生どもに弄ばれて人生を浪費していたわたしもかなり変わったように思える。
 一つ目は貫禄がついたことが挙げられよう。知らず知らずのうちに人間として一回りも二回りも成長しているようである。その証拠にかつては中学生に後ろからものさしでつつかれていたわたしも、今やものさしでつつかれるようなこともなくなった。やはり人間としての深みが増し貫禄がついたからだろう。もしくは周りにものさしで後ろからつつくような中学生がいなくなったからであろう。
 またわたしの人間としての器が大きくなったことは周囲の人間も理解しているのであろうか、わたしに重要な役職を与えるようになったのである。わたしは独身であるので寮生活をしているのであるが、今年になってから寮長という重責を担うようになった。寮長というのはその寮の中でも最も偉い人のうちの一人である。寮長よりも偉いのは、単身赴任で来た役員の人たち(五人)とわたしよりも喧嘩の強そうな人たち(八人)を除けば、全寮生十五人のうちもっとも寮長は偉い。寮長よりも偉くないのは精神的に参って休職している金沢君と腰痛もちの柳沢君(彼には喧嘩しても勝てそうな気がする)である。いかにわたしが会社から信頼されているかがわかる事実である。そして寮長は多くの寮生を束ねる重要な役職であるからそれだけに高潔な人格が要求される。現在の寮長がわたしであることからそれは証明されるが、わたしの前任者たちは皆気の弱そうな人ばかりだったのを考えると、寮長に要求されているのは高潔な人格よりも頼まれると断れない優柔不断さなのかもしれない。ちなみに寮長の業務は月に一度各部屋の電気メーターの数字を間違えずに紙に記入することとゴミの分別である。
 二つ目としてはわたしの周囲の人間たちの種類が変わったことが挙げられる。かつては夏場になればチュウチュウを吸いながらわたしの職場にやってきて、わたしがジュースと飴をあげないとわたしに職務を遂行させてくれなかった禄でもない者が大部分であったが、今では熱心に頭を下げればわたしが頼んだことでもやってくれる寛容な人たちが僅かながらいるのである。以前に比べて飛躍的に仕事がやりやすい環境になっている。またわたしに話しかけてくるのも小汚い中学生から性格の悪いOLに変わり、若い女である分やや許せるようになっている。
「すみません、居眠りしているところ申し訳ないんですがちょっといいですか」
「ちょっと待て、そんな大きな声で居眠りだなんて人聞きの悪いことを言わないでくれ。他人から見れば居眠りに見えるかもしれないが、今ちょうど目をつぶりながら新しい企画を考えていたんだ。決して眠っていたのではない。それに君が話しかけた途端すぐに返答したのが起きていた証拠ではないか」
「気の小さな動物はちょっとしたことでも反応しますよ」
「それはどういう意味だ。まあいい。こんなところで議論していても仕方がない。用件は何かな?」
「この伝票のこの数字ですけど……」
「あ、間違ってた?」
「いえ、違います。字が汚いんで読みにくかったんです。これ『4』であってますよね」
「他にどんな風に読めるんだよ」
「前々から言おうと思ってたんですけど、もう少しわかりやすい字を書いてください。特に出張旅費の請求伝票に限って読みにくいんですけど」
「それはどう意味だ。君が数字を見間違えて余分にわたしの口座に入金するのを期待しているとでもいうのか」
「あ、そうだったんですか」
「ち、ちがう。そんなせこい真似するわけないでは……」
「もうわかりましたから、今度からもう少しわかりやすい字で伝票を書いてください」
 わたしが議論を始終優勢に保っているのが気に入らなかったのか、性格の悪いOLは足早に立ち去ってしまったのである。あと三時間もあればわたしが正しいということを説得できるか、もしくは五時になって時間切れ引き分けにもっていけるか、いずれにしてもわたしの勝利で終わっていたことであろう。そして更にわたしに勇気があれば性格だけでなく見た目も悪いことも指摘できたことであろう。
 またわたしの知性的なルックスからか、いろいろとわたしに質問してくるOLもいる。かつてのわたしには「地球が爆発したら天国はどうなるのか」だの「恐怖の大王はどんな顔をしているのか」だの「ピカチュウの絵を書いたら飴ちゃんあげる」だの「神様仏様稲尾様」だの訳のわからぬ愚にもつかない質問をしてくる頭の悪い中学生ばかりであったが、今では性格と顔と足の太さに難があるものの若い女である分許せるOLに変わっているのである。
「すみません。一所懸命IMEパットにドラえもんを描いているところ申し訳ありませんが、ちょっと教えて欲しいことがあるんですが……」
「ちょっと待て、今は昼休みだから何をしててもいいはずだ。それをよりによって一所懸命って人を馬鹿にしたような言い方をしなくても……」
「そんなことはいいですから、ちょっとどっちが正しいか教えてくれませんか」
 言葉は丁寧であるが、何も知らない人は二人の強そうなOLにカツアゲをされてるハンサムな三十二歳の独身に見えたことであろう。
「わかったよ、何かな?」
「イースター島にあるのはストーンヘンジですよね?」
 いったい何をどう聞かれているのか一瞬理解できなかったが、とにかくイースター島にあるのはストーンヘンジかどうかということらしい。
「ええと、ストーンヘンジってイギリスにある巨石のことだよね」
「ええ! そうでしたっけ!」
 言葉の強さと腕力の強さと顔の迫力でつい「わたしが間違えてました」と言いそうになるが、そこは貫禄のあるわたしである。きっぱりと言った。
「たぶんそうだと思うけど……」
 するともう一人のOLが勝ち誇ったように「ほらね、言ったとおりでしょ。モアイだって」と言った。この会社にも良識はあったのかと安堵していると、続けてこう言った。
「それでイースター島ってアメリカなんですよね?」
「あと、もう一つ聞きたいんですけど、今度海外赴任した人の年末調整で必要なんですけど、デトロイトってデトロイト州にあるんですよね」
「そうそう、デトロイトって松井のいるヤンキースがあるんだよね」
「そうだったっけ、イチローじゃなかったっけ?」
「知ってる? アメリカの首都はニューヨークなんだよ」
「だったっけ? ロサンゼルスじゃなかったっけ?」
「それはイギリスの首都でしょ?」
「違うってイギリスの首都は……」
「ああ、ごめんなさい。忘れてました。で、あってますよね?」
 何がどこをどうあっているのかもはやわたしに答える気力はなかった。大人になっている分無知は罪であるが、それでも中学生の道理のわからぬ質問に比べワールドワイドな質問である分、そして質問してくるのが性格と顔と足の太さと頭脳に難があるものの若い女である分わたしの周囲の人間の質もかなり向上したように思える。
 そしてもう一つ塾講師をしていたときに比べ変わったのはわたしの仕事の質であろうか。かつての仕事は馬鹿な子供にいかにテストで点数を取らせるかを教えることと紙を折ることがメインであったが、今は違う。
「この資料は君が作ったものだから君が責任をもって対象の従業員に配布できるよう明日までにセッティングしてくれたまえ」
 明日までにやらなければいけないことは、ホッチキスで全二十ページの冊子を五百部作ることである。道具を使う分大きく仕事の質が向上したのである。


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