其の177 主婦ムーブ


 どんなものにも型というものがある。もちろん会話にだって型というものがあって特に相手が初対面だったりすると、如何にこの型から外れないように話すかが礼を逸するか逸しないかのポイントになるだろう。会社勤めともなると初対面の人から電話がかかってくることも多い。まったく知らない相手なのにわたしを名指しで呼び出す人もいて、そういう相手は大抵何かを売り込みに来た業者なのだが、そんな相手であっても何となく横柄な態度に出るのも憚られて、ついつい型通りの応対をしてしまう。
「どうも代わりました。お世話になっております」
 ちっともお世話などされていないのだが、ついつい言ってしまう。こういうまったく引っ掛かりのない言葉はよく批判されるが、だからといっていきなりこんな言葉を返されても相手だって困るだろう。
「もしかして初めてだったの?」
 何がだ。いくら初めて営業に来た人だってこんなことを言われたらかなり困ってしまうだろう。
 これまでやっていた仕事は相手が世の中のことをちっとも知らない子供だったものだから、極力引っ掛かりのない言葉は慎んでいた。引っ掛かりのない言葉というのはお互いのコンセンサスが確立されている世界でこそ通用するもので、そのコンセンサス自体がまったくない子供には全然通用しない。そういうことから考えると今の仕事は完全にコンセンサスの取れている大人が相手だから結構引っ掛かりのない言葉が通用してしまっている。
 電話での応対であれば何となく適当な言葉でお茶を濁していればいいのだが、ときには約束もしないでいきなり職場までやってきて商品を売込みに来る業者もいて、さすがに職場まで来ているものだからそのまま追い返すわけにもゆかず仕方なく応対することもある。
 目の前の男は一所懸命わたしに向かって如何にその商品が優れているかを分厚い資料を広げて説明するのだが、当のわたしはこんなことを思っていた。
「こんな余所の会社までやってきて何の興味もなさそうな男を相手に一所懸命説明するなんてこの人は大人だ」
 そしてわたしがいい加減な返答をしているのに、その人は一々しっかりとわたしの問いに答える。
 再び思った。
「この人はいい加減に返答しているわたしよりずっと大人だ」
 そしてこのようにも思った。
「この人はいい加減に返答しているわたしよりずっと大人だら」
 更にこうも思った。
「この人はいい加減に返答しているわたしよりずっと大人ダンサー」
 大人ダンサーっていったい何なのだ? 自分でも何を考えているのかよくわからないが、ともかく目前の営業の人はしっかりとしているなあ、などと考えながら彼の話を聞いていたのである。
「それで九月はですね」
 ここで一呼吸あった。そして彼は決め台詞かのように言った。
「主婦が動きます」
 あまりに突飛な物言いにわたしは一瞬聞き違えたかと思った。
「へ?」
「主婦が動くのです」
 言葉自体は単純だ。むしろわかりやすい文章だといっても良いくらいである。誰だって「九月」「主婦」「動く」この言葉ひとつひとつの意味は理解できるだろう。ところがこれら三つの単語が組み合わされるとかなり難解な文章ができあがる。
「九月になると主婦が動く」
 噛み砕いて言うとこうなる。
「九月になったら主婦というものが動く」
 更にもう少し噛み砕くとこうなる。
「セプテンバーカミング主婦ムーブ」
 余計わからなくなってしまったが、とにかく言葉自体は単純である。しかしよくよく考えてみると何が言いたいのかわからない言葉だ。何となく意味がわかるのでたちが悪いとも言える。
「ああそうなのか、九月になったらさあ、主婦っていうものがね、動くんだよ、ああ動くさ、もぞもぞとさ」
 わかったといってもこの程度だ。こういうのは理解できたとは決して言わない。たしかに主婦は動く。動かない主婦なんて主婦を名乗る資格などないではないか。それはもう主婦どころか死体であって大抵の人はそれを主婦とは呼ばない。
「主婦ここに眠る」
 誰だって墓標にこんなことを書かれたらいやな顔をするに違いない。更に、
「働き者の主婦ここに眠る」
 などとなるともう何が何なのかわからないではないか。
 話を戻そう。主婦は動く。これはわかる。当たり前だ。しかしこの文章を難解にしているのはそれが「九月」になるという点である。このことから考えると次のようなこともわかってくる。
「八月の主婦は動いていなかった」
 動いていなかった主婦が九月になると一斉に動きだす。季節のものなのか、主婦というのは。そしてもう一つわかることもある。
「十月の主婦は動いているのか動いていないのか今のところわからない」
 結局この営業の人が言いたかったのは、八月は子供が夏休みでパートに出ることもままならないから、九月になるとパートを探し始めるということなのである。この営業の人はアルバイト情報誌の人でいつ頃に求人を出すと効果的かということを言っているのである。言われてみれば納得もするが、しかし「主婦が動きます」という表現には、だからどうしたという気にさせられるものがないだろうか。
 たしかに彼の言うように八月はパートに出ようという気になれない主婦もいるかもしれない。数字の上では九月になると主婦がパートに出ることが多いのかもしれない。しかしだからといって主婦という総体が一斉にパートを探しにまわるわけではないだろう。一人一人の都合に合わせてパートを探しに出たり探さなかったり色々とあるはずで、それを一言「九月になると主婦が動く」とまとめられても主婦だってちょっと困った顔をするのではないか。
 たとえばこういうのはどうだろう。
「九月になると将棋指しが動きます」
「九月になると力士が動きます」
 どうだろう。何だかひどく大雑把な感じがしないだろうか。ここには同じカテゴリーに属する人は同じ行動を取るだろうと簡単にまとめてしまっている態度がある。人はさまざまな理由で大勢の人間がどういう傾向を持つかということを知ろうとするが、結局は完全にはわからないものだから、ある一部のデータからこういう人はこういう行動をとるに違いないと決めてしまう。そしてそのことを断言してしまう。そこには言い切ることによってすべてわかっていると見せかけようとする態度が見え隠れする。わたしが「九月になると主婦が動きます」という表現に違和感をもったのはこういう態度にあるのではないか。
 そしてこのようにまとめられた者の悲哀は「九月になると○○が動きます」という表現から何故か「取るものも取り敢えず動きだしてしまった」という趣きが感じられることだ。
 主婦だったらこうだ。
「洗い物をしていた主婦が濡れた手を前掛けで拭きながら猛烈に勝手口から飛び出す」
 猛烈に勝手口だ。勝手口から飛び出した主婦は取り敢えず前掛けの結びをほどきながらも前へ前へ走る。何故走っているのか主婦にだってわからない。それは九月になってしまったからだ。
 将棋指しだったらこうだ。
「飛車を高く掲げながら猛烈に縁側から飛び出す」
 猛烈に縁側だ。縁側から飛び出した将棋指しは高く掲げた飛車のやり場に困りながらも前へ前へ走る。何故飛車を高く掲げながら走っているのか将棋指しにもわからない。それは九月になってしまったからだ。
 力士だったらこうだ。
「土俵で相手の力士とぶつかっていた力士がまわしをほどきながら土俵際から猛烈に飛び出る」
 力士が土俵から飛び出たら負けでごわす。それでも力士はまわしをほどきながら国技館から飛び出るでごわす。何故そんなことをしたのか力士にもさっぱりわからないでごんす。それは九月になってしまったからでごんす。
 みんな取るものも取り敢えず慌てて動きだしてしまった、そういう悲哀が感じられるのである。
 そんなことを考えながら営業の人の話を聞いていた。ふと前の営業の人をみると、上出来の営業トークにもかかわらずあまり反応のよくないわたしに不安そうな表情をしている。
「なるほど、そうなんですか。しかし今は十一月ですから、どうなんでしょう、十一月は」
 そう如何にもしっかりと聞いているような返答をした。
 営業の人は先程の自信たっぷりな表情に戻ってこう言った。ここからが本番なんですよ、そういう表情にも読み取れる。
「十一月はね、学生が動きます」
 頭の中ではこんな言葉が浮かんでいた。
「ノーベンバーカミング学生ムーブベリーハードアンドクイックリー」
 やっぱり学生は激しく、そしてすばやく動くに違いない。


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