其の163 最後の挨拶


 突然だが三月いっぱいで仕事を辞めてしまった。つまり四月に入った今やわたしの身分は失業者なのである。
 「二十九歳無職両親と同居。趣味はコンピュータと読書。部屋にはCDが五百枚くらいとビデオテープが百本くらい散乱している」
 もはや駄目人間だと笑っていられる場合ではない。我ながらもう八人くらい幼女を監禁しててもおかしくない身分である。よくニュースで報じられている犯罪者のプロフィールと同じになってしまうなんてこれまで一度も考えたことなどなく、そんな犯罪者のプロフィールをみて「いい年をしてなんて奴だ、日本が豊かでなかったら即刻殺されてしまっているぞ」などと笑っていたが、現実にそうなってみると「やっぱりああいう犯罪者だって普通の人間なんだ、魔がさしたのだろうな、頑張って社会復帰してくれればいいのに」と考えてしまっている自分がいるのに気づいた。そして死刑になってもおかしくない犯罪者をも優しさで包みこむマザーテレサとテレサ・テンとガンジーと鑑真とを合わせて八で割ったような博愛精神と、ルパン三世とナポレオン三世と猿飛佐助と猿飛エッちゃんを十七で割ると割り切るのが難しいちょっとよくわからない変わり身の早さを持ちあわせている自分を発見した。そして自分にはとことん甘いことも知った。
 とにかく今のわたしは紛うことなく失業者である。衝動的に仕事を辞めてしまうなんて不良になった気分でちょっとわくわくしている。社会的に不良品の間違いじゃないか、という声がどこからか聞こえてきそうであるが、今のわたしではまったく言い返すことなどできない。せめてもの反撃としては「社会に適合してそんなに楽しいか、このモダンタイムズ野郎」とよくわからないことを真夜中誰もいない部屋でこっそり呟くのみである。悔しい。あと言わせてもらうとわたしに平凡な社会人は似合わない、社会という枠は俺には小さすぎるのである。どちらかというとわたしは『俺たちに明日はない』のクライド・バロウと一休さんとを合わせて十六で割って竹を割ったような性格である。ワイルドでかつ無軌道、そしてちょっと頓智がきく。そんなキャラクタであるわたしがいつまでも同じ仕事で満足していられるわけがないのである。
 如何に仕事を辞めてしまった自分を正当化しているかわかるが、兎も角これまでの職場とも三月で最後である。三月半ばくらいにその旨を同僚たちに伝えた。わたしとしてはいくら引き止められても辞めるのを撤回する気などさらさらないが、一応社交辞令としてでも、わたしが如何にこれまで職場で重要な仕事をこなしていたかを振り返ってもらいたいという薄汚れた生ぬるい気持でいっぱいだった。
「ということで三月いっぱいで辞めるんすよ」
「ええ、そうなんですか。もしかして職場のお金を盗んでいたのがばれたんですか」
「な、何を言うんですか、そんなことするわけないでしょ」
「そうですか。で、どうしてやめるんですか」
「そろそろ世界を相手に仕事をしようと思ったんですよ。わたしの器じゃこの職場は小さ過ぎますから」
「職場の机の整理整頓もできないくらいの小さい人間じゃないですか。そこの机でいっぱいいっぱいです」
「く、し、しかしいずれわたしの名前を聞くときが来るかもしれません。そのときはジュースくらい奢ってあげます」
「ありがとうございます。じゃあ代わりに街で段ボール片手に歩いていたらパンくらい奢ってあげますよ」
 だいたいの同僚はほぼ同じような回答であった。わたしが如何にこの職場で大切に扱われていたかわかるであろう。
 しかし同僚の中で唯一上司の高橋さんだけはわたしに優しかった。
「ということですので、後のことはよろしくお願いします」
「そうか、残念だな。わたしが妻と喧嘩したとき暇つぶしにつきあってくれる貴重な人材が居なくなるとは。残念だよ」
「えええ、今まで奥さんと喧嘩したときがギターの練習日だったんですかあああ」
「そうか、知らなかったのか。誰も知らない秘密をもつ、それが大人というものだよ、フフフフフ」
「なに格好つけてるんですか。まあ、それはいいです。これまで五年間で三回牛丼を奢ってもらったり一回ハンバーグを奢ってもらったり、百円のピックをくれたりいろいろと御世話になりました。この御恩は一生忘れません」
「そうか、そんなに感謝してくれるなんて。ところで何回食事を奢ったかな」
「合計で三回です」
「もう忘れてやがるな。まあいい、そうだ餞別をやろう」
「えええ、そ、そんなことしてもらわなくても、いろいろ御世話になっているのに。できればお金がいいです」
「ええと、今持ち合わせがないなあ」
「いつもないじゃないですか」
「やかましい。そうだ、これをあげよう。これは便利だ。紙にいろいろと字が書けるし、消しゴムで消えないんだ。包装もせず裸で申し訳ないが、これで勘弁してくれ」
「それ、教材屋からもらったボールペンじゃないですか」
「そうだ。ここに『教育開発社』と印字してある。いい思い出になるだろう。遠慮せず受け取りたまえ」
「誰も遠慮なんてしませんよ」
 思いがけない人の優しさに悔し涙が出てきそうになったのである。
 別れは同僚たちだけではない。中学生や小学生たちともこれでおさらばである。
「渡部ちゃん、辞めちゃうのおお」
 この女子中学生はちょっと頭が弱いのかわたしのことを「ちゃん」づけで呼ぶのである。
「こら、いいかげんその渡部ちゃんというのはやめてくれないか。これでも今年で三十歳だ。あんまりにも情けないのでやめてくれないか」
「うん、わかった、渡部ちゃん。それでどうして辞めちゃうの?」
「ええとだな、いろいろあるんだ。まあいつまでもこの商売をやっている場合でもないしな」
「わたしらを見捨てるんだ。もっと勉強頑張るからわたしが卒業するまで居ってちょうだい」
「おお、なかなか可愛いことを言うんだな。しかしそんなこと言っても卒業したらどうせ忘れてしまうくせに」
「そうだけど、渡部ちゃん宿題少ないし、飴ちゃんくれるし、たまにジュース奢ってくれるし」
「それだけかい!」
 中学生は自分の利益を含めた冷徹な判断の上で別れを惜しんでくれているのだが、小学生はそんなことまで考えられないから、もう少し純粋でちょっと涙ぐんでしまうようなことを言ってくれる。
「先生辞めちゃうって他の先生が言ってたけど、本当」
「ああ、そうだ。これで君たちともお別れだ」
「それじゃあ、もう野球の話できる人がいなくなるなあ」
 野球好きの内村くんである。先日彼と東映フライヤーズだの国鉄だのクラウンだの西鉄だのといった話をしていたのだが、彼も別れを惜しんでくれているのである。
「そうだな。君の話についていける小学生はおそらく世界で二人くらいだろうな。だいたい大人だって怪しいものだから」
「いやだなあ。塾変えようかなあ。野球の話ができる先生がいるところに」
「何しに来てるんだ、塾に。まあ、そういう話は大人になったらできるから、それまで我慢しなさい」
 偏差値極悪の通称「かわっちょん」こと河内くんも別れを惜しんでくれた。
「ぐへぐへ、ちぇんせい、これあげりゅ」
 かわっちょんが手にしていたのはキラキラ光っている「遊戯王」のカードであった。
「こりぇ、むっちゃレアやからもう手に入らへんねんでえ。先生やからあげる。大事にしてな」
「ああ、わかった。一生大事にするからな」
「……でもな」
「うん? どうした?」
「じいっと見て見飽きていらん思ったら返してな? な? 約束やで?」
「……あ、ああ、わかった。見飽きたら返しに来るから」
 流石のわたしもちょっと涙ぐんでしまったのである。
 というわけでこれまで毎回同じようなネタを綴った「駄目塾講師奮闘記 -青春編-」(さきほど命名)がひとまず終了ということになる。読み飽きたという方にはちょうどいいかもしれない。これからの人生どうなるのかわたしにもまったくわからないし、またどんなことをネタにして書くのかわからない。また懲りもせず同じように職場のネタを書くかもしれないし、案外御涙頂戴のメロ雑文を書くのかもしれない。
 ということで次回は「駄目失業者奮闘記 -乾坤一擲闘魂編-」(意味不明)である。


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