其の157 猿子は今


 先日のこと。
 出勤してみると、いつもならば、おはよう、今日のご機嫌いかがあ、などと気色の悪いことを事務の佐藤さんが声をかけてくるのだけれども、今日はその気色の悪い挨拶もなくて、妙だ妙だと思うのだけれど、もしかしたら昨日頼まれていた作業を適当にやったのがばれたのかしらん、なんて考えも浮かんできて、慌ててその作業の出来具合を見に行くのだけれど、いんや別にどうってことない、掲示物につけておいた押しピンが外れかかっているだけ、こんなことはいつものことであるから、あらあ風かなんかでとれちゃったのかな、なんてとぼけたことを誰に言うともなくつぶやいていたりしたら、上司の高橋さんが何だか真剣な顔で俺の方へ近寄ってくる。いや、やめて、またギターの練習の進み具合を聞きに来たのかも知れん、なんてびくついていたりすると、高橋さん、いきなり俺の腕をとって笑いながらこう言ったのである。
「おまえか」
 おまえか、なんて言われたのはここんところ一度もなくて、ちょっと嬉しかったしたんだけど、笑いながらそんなことを言われたって迫力っていうものがちっともない。
「まさかおまえじゃないだろうな」
「どうしたんすか?」
「いやね、どうやら泥棒が入ったらしいんだ」
「え、泥棒っすか」
「そうらしいんだ。まだはっきりと決まったわけじゃないけどな」
「って言いますと?」
「今日佐藤さんが来たとき、何だかいつもと様子が違うんだって。もしかしたら泥棒じゃないかって。それで今なくなったものを探しているところ」
「じゃあ、泥棒に入られたと決まったわけではないんですね」
「そうなんだ。だからさっさといつもの仕事に取りかかりたいんだけどな」
「ということは佐藤さんがそんなこと言い出さなければ、別にこんな騒ぎにはならなかったということですね。だいたい何かが盗まれたから泥棒が入ったっていうんでしょ。これじゃ反対じゃないですか」
「ま、そうなんだけどね」
 なんてことを二人で話していると、事務の佐藤さん、突然猿のような奇声をあげて、こうのたまった。
「わたしのカレーがないいいい」
 やっぱり猿だった。ここに至ってカレーとは何を言いだすっちゅうねん、と叫びだそうな俺であったが、そこはそこ、社会人として立派であらねばならん、ここで叫んだら、こやつは普段おとなしそうに仕事しとるのにそんなこという輩だったのかい、ああそう、社会不適合者やったというわけやね、などと思われてしまう。それで叫びそうになった気持をそこにおいてあったクリップなんぞを転がして紛らわせたりして。佐藤さんは猿だ、猿だったのだ、そういえばいっつもウキーウキーて言って、俺のやることに細かく注文をつけたり、わかっとるちゅうねん、と言い出したくもなってくるのが、いつもの俺と佐藤さんとの関係。やっぱり佐藤さんは御猿さんやったんやなあ、うすうす感じてたけど、ほんと御猿さんだったんだね。乾杯。佐藤猿子さんへ。だからって佐藤猿子に向かって、あなた猿ですか、いや猿です、まごうことなき猿でごわす、なんて言ってみたい、そんなことおくびにもださず、ダブルクリップを小指薬指中指人差指親指と順番に挟みながら、ダブルクリップのダブルってなんでやろ、なんてこと考えたり、御猿って書くと何だか昇殿をゆるされてる四位五位以上か六位の蔵人かなんかの官位を授かっとる偉いんか偉くないのかわからん猿みたいだね、なんて考えてたりして。それでことの次第をぼうとみていたら、佐藤猿子、どういうわけかきっと歯をむき出して俺の方を睨んでおったのである。
 猿子、俺を疑っておる。
 しかし御猿であるところの佐藤猿子であっても、泥棒がこの部屋に入ってレトルトのカレーを盗んでゆくわけなんかないことくらいの分別は持っていて、それじゃあ何? 泥棒じゃなかったら誰? そうよここで働いてる駄目人間のうちの一人がわたしの大事なククレカレー(中辛)を盗んでいったに決まってるじゃない、どうせそうよ、そうに決まっている、じゃあこの中の誰? 決まってるわ、いつも貧乏そうな顔しながらカレーが好きって広言している馬鹿に違いないわ、ウキーウキー。なんてこと考えていることくらい俺には御見通しよ、んー、なんて遠山の金さんみたいに言ってみたかったんだけど、俺には桜吹雪の彫り物なんてない。
 そこで佐藤猿子が俺に向かって、キー、あなたね、だってカレー好きだもん、この泥棒、なんて言ってくれればこっちだって、ヘイ、猿子さん、何を言っとるんや、俺がカレーを盗んだちう証拠はあるんかい、あるんやったら、逐一ゆうてみ、一から十まで、ひとおつ、人の生き血をすすりなんて桃太郎侍みたいにさ。俺が盗んだちう証拠をゆうてみ、ほれほれ。なんて逆に猿子に言ってみたりできるんだけど、猿子は猿子なりに一応のところ智慧ちうものがあって、いきなり証拠もなくて俺を容疑者に仕立てあげるのはちょっと無理だと思ってるのである。
 騒ぎが大きくなったわりに盗まれたものが、レトルトカレー。なんで俺はこんなことに巻き込まれているんやろ、やっぱり俺がこのあいだ朝昼晩とカレーを喰って、ヘイ、今日の俺ってグランドスラム、満塁ホームラン、駒田って凄いね、だってホームラン二百本も打ってないのに、満塁ホームラン十本以上打ってるからね、王ですら十五本なのにね、んー、ベリークール、イエイ、駒田、だけどとうとう戦力外通知。なんてこと考えてたからか。からか。
 猿子は未だ俺が犯人だと思い込んでいるようで、その猿顔でもってウキキ早く白状したらどう、なんて顔で俺の方を見ている。そのまま俺の方を睨んでいるだけなら良かったんだけど、猿子、猿は猿なりに頭が働くらしく、なんと周りの人間を巻き込み始めやがったのである。ねえ、多分、これ取ったのって、カレーが好きな人なんでしょうねえ、まあわたし別にカレーの一つや二つよろしいんですけど、黙って食べるなんてね、一言いってくださいましたら、いくらでも食べさせてあげたんですわよ、ほほほ、なんて言いやがった。それでもって俺の方をちらちらと見やがった。何ゆうとんねん、猿子、己がカレ喰ったカレ取られたって、騒いだことが悪いんとちがうの。ねえ、猿子。
 泥棒が入った入らんということはどこかへ行ってしまい、今やカレー泥棒探し。その上疑われてるのが俺。猿子は猿子で俺が犯人だと決めつけてる。ああ、給食費がなくなった教室で犯人扱いされてる貧乏な、いわゆる家庭の所得が低くていっつもジャージはいてる餓鬼ってこんな気持だったんだろうね、なんて濡れ衣着せられた貧乏な餓鬼にちょっとシンパシーを感じたり。
 そんな状況を見て上司の高橋さん、笑いながら俺にいきなりこう言った。
「ゥワータベくん、君が食したんじゃないの? カレ好きだから」
「いえ、別に食しておりませぬ」
「そうなの、てっきりゥワータベくんかと思ったけどね」
「でもこんなところでククレーカレ喰うなんてことしませんよ。だって米飯がないですし、電子レンジもないですから」
「そりゃそうだね」
「わたしは神に誓って言いますが、カレーを食するときは暖かい米飯じゃないと駄目なんです」
「そういや、ゥワータベくんはいつもここでパンしか食しておらぬからね」
「そうです、いやしくもわたくし、冷たい飯の上に神聖なるカレを乗せるなんてこといたしません」
「キー、何言ってんのよ。冷たいご飯にあつあつのカレーをかけるのが美味しいんじゃないのよ」
 猿子、もはや自分を見失って。その奇声を聞いて、職場で働く労働者どもは皆それぞれ個人用に与えられたデスクについて普段の業務にもどったのである。
 おさまらないのは佐藤猿子、皆のそんな態度は俺の所為だといわんばかりに更にきっつい顔で俺を睨んだのである。そんなもん俺は知らんからね。勝手にキーキー言ってればあ、てな感じで俺は廊下に出て右の拳を天に向かって突きさして、イエイ、天上天下唯我独尊、なんてお釈迦さんみたいに。よくわからないポーズ。そう保健体育の教科書に載ってた喜びを身体を使って表現するっていうやつ、それでもって今日の帰りはカレーに決定、なんて決意固めて。


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