其の146  ジョン・レノンに捧げちゃうぞ


 本日は十二月九日である。この日はわたしにとって特別な日である。そう、今日はカーク・ダグラスの誕生日なのである。ちなみにわたしとカーク・ダグラスとはちっとも関係ないのであるが、それはそれとして先日のことである。
 わたしはいつものように職場の近所で買った一袋百七十円のスナックパンを頬張りながら、今日一日の仕事内容を具体的に想像してみては滅入っていた。あれもさせられるぞ、これもさせられるぞ、どうしてわたしはこんなにも不幸なのだ、これというのもすべて社会が悪いのだ、などと己の不甲斐なさを棚に上げることで現実逃避していたときにそれは起こった。
「す、すいませ、ん」
 ドアの方を見てみるとそこにはわたしの同僚がいた。その同僚はわたしよりも十歳ほど年上なのだが、非常勤で働いているので立場的にはわたしの方が上である。つまりはここではわたしの方が上司にあたるというわけである。わたしは上司としての威厳を保ちながら、ふらふらと職場へと入ってきた同僚に言った。
「あ、あの、どうしましたか。何だかふらふらしてはりますけど。もし体調の方が悪いのでしたら今日の仕事はわたしが代わらせていただきますっ」
 部下であるところのその同僚に敢えて敬語を使い彼の体調にまで気を配るなど上司としての度量の広さを見せつけながらも、心の中では今日の夕食のメニューはやはりカレーしかないと決意を固めていた。つまり相手を気遣う振りをしていたわけである。
「あ、あの、聞いてませんか」
「何をですか」
「いや、その、実は聞いているんですよね」
「何をですか」
「ええと……知ってますよね」
「いや、だから何をですか」
 何だか胸騒ぎがしてきた。かつてこれと同じような会話をかわしたような気がしてくる。デジャブというわけではない。この会話のパターンはわたしを恐怖に陥れるパターンではないのか。いや、そんなことはない。○○と遭遇することなどこの平和な日本、そうそうあるものではない。
「えっとですねえ。もう少し詳しく話してくれませんか。わたしが何を知っているのでしょうか」
 その同僚は青白い顔でもってこの部屋の天井や壁といったところをきょろきょろと見回している。わたしの話など聞いてはいない。
「あ、あのですね。体調が悪いんでしたら今日は休んでくれても構いませんが……」
 このような言葉を上司の口から一度も聞いたことがないわたしはちょっと悔しい思いをしながら、その同僚である基地外夫(仮名)に言った。しかし基地さんはわたしの言葉などちっとも聞かずぼそりと言った。
「おかしいんです。わたしの周り全部が。いつもと違うんです。何から何まで。この部屋もいつもと違う。おかしいんです」
 いや、違うよ、基地さん。おかしいのは基地外夫さんです、絶対、という突っ込みを堪えながら、そして怖々彼に訊ねる。
「あ、あのですね。別に何も変わってませんけれども。基地さんの思い過ごしぢやないでしょうか」
「いや、変なんです。うちの近所の食堂でビールを呑むでしょ」
「は、はい」
「するとね」
「はい」
「ぼうっとするんですよ」
 当たり前である。酒を呑めば頭がぼうっとするのは当たり前ではないか。
「それにね、さっき駅前で献血をしてきたんです。ほ、ほら、見て下さい。ここに献血の跡があるでしょ」
「そ、そうですね、で、でも体調悪そうなのに、献血です……か」
「するとね」
「は、はい」
「ぼうっとするんですよ」
 当たり前ではないか。血を抜けば若干ぼうっとするのは当たり前ではないか。一体どうしたというのだ、先週まで基地さんは基地さんではなかったのに。一週間で基地さんが基地さんになってしまうとは。
「それにね、さっき本屋さんでエッチな本を読んでたんです。ほ、ほら、この鞄の中に買ったのがあるでしょ」
「ひ、ひい、ありますありますったら」
「するとね」
「は、はい。ぼうっとするんですね。わかりましたから、わかりましたから」
「違うんです」
「え?」
「ぼっきするんです」
 早く退散せねば、このことしか頭に浮かばない。わたしのただでさえ悪い頭が更に混乱してもう何が何だかわからない。
「と、取り敢えずですね、今日のところは体調も悪いようですしお休みしても構いませんから、ちょ、ちょっとここに座っていて下さいね。すぐにもどりますから」
 わたしは駆け足で部屋から飛び出した。そして歩きながら携帯電話で本日休日である上司の自宅まで連絡をとった。すると上司はすぐに職場にやってくるとのこと。基地さんの仕事分のいくつかは受け持ってくれるとのことである。わたしはやや安心し職場に戻った。すると基地さんは死んだ魚のような目で空を見つめていた。
「えっと、今日はですね、高橋さんが代ってくれるそうですから、お休みしてもよろしいですよ」
「そ、そうですか。でも警察がわたしを捕まえに来るかもしれません」
「そんなことないですって、基地さん」
「いえ、ほんとです。ほらそこの天井にも警察が隠れてるんです。わたしのことを捕まえるんです」
「そ、そうですか……あ、あのわたしこれからしなくてはいけない作業があるものですから。何かあれば向こうの部屋に来て下さいね」
 わたしは二人きりで同じ部屋にいるのに耐えられなくて別段今やる必要のない作業を無理矢理作り部屋から出ていこうとした。
「あああああああ」
「ひいい、な、なんですか、基地さん」
「……お茶飲んでいいですか……」
 基地さんはお茶好きなのである。夏でも熱いお茶を飲む人である。このあたりは普段と同じであった。
 わたしは隣の部屋に行き、己に降りかかった不幸の味を噛みしめていた。しかしぼうと何もしないでいると基地さんに見られたらことである。どういうことになるか想像すらできないししたくもない。そこで作業を始めた。すると十分ほどした頃、基地さんはわたしが作業をしている部屋にやってきた。
「ど、どうしましたか、もう少ししたら高橋さんがやってきますから、それまで待っていてくださいね」
「わ、わかってます。でも気になったものですから……」
「何をでしょうか」
「黒と白と赤ですね」
「何がでしょうか」
「これと、これと、これ。ふふふふふふ」
 わたしのスーツとシャツとネクタイを指差して言うのである。
「駅前にも沢山いましたよ。黒のスーツで白のシャツで赤いネクタイの人が沢山。わかっているんです。みんなわたしを監視しているんです。あなたもでしょう」
「ち、違いますよ。監視なんて。してませんったらしてません」
「本当のこと言って下さい。どうしてわたしを監視するのですか。教えて下さいよ、ね、ね、お願い。教えて」
「知りませんったら。ほ、ほら、僕、いつもこのスーツでしょ。いつもいつも、だから普段と同じですって、貧乏ですから代えのスーツがないんです。先週もそのまた先週もこのスーツでしたでしょ。ですからスパイでも何でもないんですって」
「……みんな、そういうんですよね……」
 ちょうどそのとき上司の高橋さんが職場に到着した。そして基地さんは高橋さんに肩を抱かれながら元の部屋へと戻っていった。
 基地さんが帰った後、上司の高橋さんを含めた同僚たちと今後の事についての会議が開かれた。
同僚A「基地さんは真面目な人だから、何か思い詰めてしまったんでしょうね」
同僚B「そうですね。そういえば最近道路工事の音で眠れないって言ってました」
同僚C「しかし可哀想ですね。あっという間でしたからね。ああなるのに一週間もかかってませんから」
高橋さん「基地さんのことは可哀想だが、基地さんがああなってしまった以上、その穴は皆で頑張って埋めましょう」
同僚A「そうですよね。我々にできることと言ったら頑張って穴を埋めるだけですよね」
同僚B「そうです。もしあれでしたらわたしが休日出勤して代りますよ」
高橋さん「そうか、ありがとう、Bくん。気持は有り難く受け取っておくよ」
同僚A「わたしも余分に出てきますよ」
高橋さん「ありがとう、Aくん。気持だけいただいておくよ」
わたし「そうですよ。みんなで頑張りましょう。わたしも基地さんの代りにどんどん使って下さい」
高橋さん「そうか、渡部くん。君が代ってくれるか。ありがたい。これから十二月物凄く忙しくなって一日だって休みがとれないが渡部くんが代ってくれるのか。いや有り難い。早速上司に報告しておくよ」
わたし「え?」
 というわけで十二月は一日も休みがなくなってしまったのである。しかし同僚と同じことを言ったのにどうしてわたしの発言だけは真に受けるのだ、高橋さんよ。そんな風にわたしに辛く当るのなら、わたしだって狂っちゃうぞ。


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