其の133 無自覚なのだ


 世の中には平然と恐ろしい言葉を吐く人がいるもので、その恐ろしさはその言葉を吐いた本人がそれが恐ろしいことだというのを自覚していないところから来るものが多く、どうしてそんな怖いことをいうのだと問い詰めたところで、何が怖いの? などと痴呆面してその恐ろしさというものを微塵も感じていないものである。わたしの父上もそういった傾向にあって、何となれば犬の美容室に予約を入れる際に、「ええと、渡部コロです。今度の火曜日に予約を入れたいんですが空いていますか」などと知らない人がこの姿を見たりすると「うわ、この人は一見徒のおっさんに見えるが実は犬なんだ」と勘違いしてしまったり、もしくは「ちわ、三河屋です」などと御用聞きが来たりしていて母上なんかが「ちょっと待ってね、今要るもの調べてくるから」などと三河屋のサブちゃんを玄関口に待たせているとき偶然この父上の会話を聞いてしまったりすると、「うわ、この家には喋る犬がいるう」と御用も聞かずに慌てて走り去ってしまう可能性も拭えず、あるいは父上と電話で会話している犬の美容室の受付が「もしかしたらこの人の名前は本当にコロっていうのかもしれないわ。それだったら多分息子にはチロだとかシロだとかアレキサンダーなんて名前を付けたりしているに違いない。その癖娘の名前はチャラちゃんなんて猫の名前を付けたりして一貫性がなかったりするのよねえ」などと彼女の想像力を刺戟して声は冷静だが心は大爆笑の渦に巻き込んでいたりすることなどちっとも考えずただただ「渡部コロです」と世が世なら「拙者の名は渡部コロでござる」というのとそう大差ない名乗り方をしているのである。まったく恐ろしい。
 無自覚に恐ろしい言葉を吐くというと、その身体いっぱいにあたかも耳なし芳一の如く「無自覚」と隅々まで書かれているに相違ない小学生という生き物がいて、彼ら小学生がふと呟く言葉に敏感に反応して「い、今、何と言ったのだ」と問い詰めたりしても「何があ、覚えていないい」などとやはり餓鬼らしく痴呆面して答えるのが常であるのだが、ときたま無自覚ながらも妙なポリシーをもった小学生もいるもので、たとえば小学五年生の女の子なんかが勉学に飽きてふと「あたし、付き合うのなら二十歳以上年上じゃないと嫌なの」などと口走ったりして、それはいかんのじゃないか、そんなことを隔離もされずに闊歩しているロリータコンプレックスの男が聞いたとしたらどうするつもりなんだ、それに普通の男は十一歳のお前なんぞ相手にするわけもないし、考えてみれば二十歳年上というと今三十一歳ではないかと色々と頭に浮かぶのだけれども、事が事だけに理由を明確にして注意することもできず、ただただそういうことを言うのは良くないよ、ほら谷口君だってなかなかハンサムじゃないか、同級生の男の子にもかっこいいのが沢山いるだろうに、と場を和ませようと努力しているにもかかわらず、「ええ、だって小学生って餓鬼じゃない」とわたしの努力を一蹴し、そして己もその餓鬼じゃないかという初歩的な突っ込みを入れるくらいの対応しかできないわたしの方をじっと見て、「二十七歳ということは十六歳しか離れていないのか、じゃあ全然駄目」などと言われて立つ瀬がなかったり、脊髄から直接言葉を吐いているに違いないとわたしに確信させる小学生というのはまったく恐ろしい存在なのである。
 職場で喫煙する習慣のある者はわたしだけであって、その所為で言われなき暴言を吐かれたり、はたまた煙草をやめさせて何か得なことでもあるのかわからないのであるが何やら怪しげなところから妙な知識を仕込んできて煙草を喫うことの害を説いたり、事ある毎に煙草を喫うわたしの居場所を狭めてくる人がいるのであるが、その度に文學者の多くが喫煙していただとか、喫煙する習慣のあった科学者のお影で現代が如何に豊かになっているかだとか、喫煙する以上に排気ガスが大量に噴出されている地域に住む方が肺癌に罹る率が高いだとか、もしすべての喫煙者が突然禁煙したりすると途端に国家財政は破綻するだとか、明治の世の煙草は現代のものよりも遥かにニコチンが多量に含まれていたにもかかわらず肺癌になる人が少なかっただとか、果てはアメリカ大陸より煙草がもたらされる以前よりも平均寿命が伸びているしわたしは十五歳の頃より喫煙しているが身長は百八十四センチに伸びただとか、論理的なものから屁理屈なものから擬似科学めいたものまで持ち出して喫煙することの有益性を説くことによって、喫煙者を迫害する者へ反論を試みていたのだが、つい先日彼は核兵器を所持したかのような笑顔をもって、わたしに対面した。
「煙草を喫うと肺のDNAに傷がつく」
 如何なる表情でもって応えれば良いのかわからぬことを吐くのである。DNAというのは細胞の核に存在し、正式にはデオキシリボ核酸というもので、メッセンジャーRNAだとかトランスファーRNAだとか、そういったものを使ってDNAの塩基配列を丸ごと新たに作られた細胞の核に設置せしめ、つまりは個体内の細胞すべてに同じDNAが存在するのが基本であるからして、「傷がつく」とは如何なる比喩なのか理解に苦しむ。おそらくは癌細胞を作り出してしまうことへの比喩であるのだろうとわたし自身は諒解するのであるが、恐ろしいのはわたしをわたしであると規定しているDNAなるものへ「傷がつく」などという言葉を使ってしまう精神であり、そしてこの怪しげな情報でもって喫煙者であるわたしを責めることに何の逡巡もないという精神であったり、そしてこのことを言うことによって「どうだ、参ったか」と勝ち誇った顔をする精神なのである。しかし「肺のDNAに傷がつく」とは何だか妙に恐ろしい言葉であるが、その実「肺癌になる」というのと殆ど結果に違いがないように思える。そこでわたしは、肺のDNAが失恋か何かして傷ついてさめざめと泣いている様子を思い浮かべたりして、彼の吐いた何だか怖い言葉を紛らわせながらも、しかし世の中には無自覚に恐ろしい発言をする人があまたいるものだと妙に感心したりもするのである。


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