其の126 駄目しばり


 一般に欠点のない人間というのは存在しないと言われる。もちろんわたしとて例外ではないのだろう。外面内面心技体ありとあらゆる面において完璧を誇るわたしであるが、そうは言ってもどこかに欠点があるはずだと謙虚なわたしは先程から猫の目の前に紐をちらつかせながら真剣に考えてみているのだが殆ど思いつかないのである。もしかすると欠点を思いつかないというのがわたしの欠点であるのかもしれない。ついでに己を客観視できないというのも欠点であるのかもしれない。しかしこの欠点というのは非常に不思議なものであって、本人が欠点であると思っているものでも他人からすればまったく欠点だとは思えないものもあり、たとえばわたしなどは「あまりに美しすぎて世の女性が近づいてくることが出来ない」というのが唯一の欠点であるかと考えているのだが、他人は「そこまで言い切る度胸の良さは買える」とわたしの欠点をむしろ美点であると呆れつつも誉めたたえたりもするのである。こういうように欠点というのはかなり相対的であり、視点が変れば美点に昇華してしまうものなのである。平面的に考えてみてもこれだけ評価が変ってしまう欠点であるから、時間軸をも考えてみると更に変ってくる。
 美醜というものを考えてみると、かなり時代と共に変化しており、その欠点に対する評価も複雑である。歯ぐきが出ている、もしくは笑うと歯ぐきが丸見えだというのは古来より男性女性問わず美醜の「醜」の属する身体的欠点であると思われていたはずである。おそらく近代以前の人々は歯ぐきが出ているのを、「猿のようだ」だの「つき刺さりそう」だの「食べられそう」だのと言って軽蔑し、現代では考えられないことだが差別すらしていたのだろう。しかしである。近代に入り医療技術が発達するにつれ「歯ぐきが出ている」ことは欠点どころか誰もがうらやむ美点と変ってしまった。歯医者である。歯医者にとって麻酔の注射をするのに歯ぐきが大きい程やりやすいのである。特に腕に自信のない歯医者ほど歯ぐきが出ている患者を歓迎したはずである。治療中どうも麻酔注射が打ちにくいと思っている腕に自信のない歯医者がぽつりと漏らす。
「嗚呼、もう少し歯ぐきが大きければ……」
 あれ、これまで歯ぐきが出ていなかったのが唯一の自慢だったのにこれはどういうことなの? 歯ぐきが出ていないことが悪いことなの? それだったらもっと歯ぐきが大きければ良かった、嗚呼、歯ぐき。
 このように「いいよなあ、麻酔注射が打ち易くて」とそれまで美しくないものとされていた大きい歯ぐきの評価ががらりと変ったのである。これ以降歯ぐきの天下はおとずれたわけだが、わたしが推理するに歯医者に腕が悪い者が多いのは「歯ぐき者」の陰謀ではないかと思う。歯ぐきは時代と共に欠点であったものが一転して美点に変った例の一つである。
 また出っ歯というのもかつては「醜」を担っていたはずである。何なら「出っ張りやがって」「余計なものを飛び出させやがって」と苦々しく思っている人もいただろうし、側を通るとセーターに歯が引っ掛かってしまい「釘野郎」と罵られた者もいたかもしれないし、接吻の際相手の唇に刺さってしまう為「出っ歯と犬立ち入るべからず」という貼り紙のある怪しげな店もあったことだろう。その為、出っ歯の人間はその見た目の自己主張の激しさとはうらはらに肩身の狭い思いをしていたと思われる。今となれば反省すべき過去である。しかし時代は変った。戦後欧米文化が続々と日本に入ってくる中、やがてロックミュージックも輸入されるようになってくる。エルビス・プレスリー、ビートルズなどが日本の音楽シーンに現われるわけだが、まだこの頃は「非出っ歯者」は安穏としていた。しかし六十年代後半になると突如として「出っ歯者」と「非出っ歯者」の立場が逆転するのである。ジミ・ヘンドリクス、彼の存在がそれまで欠点とされていた「出っ歯」というものを美点に昇華させたのである。彼は上を向きギターを顔面の前に持ち上げ、そして歯でギター弦を弾くいわゆる「歯弾き奏法」を広く世界に紹介したのである。彼の登場は「非出っ歯者」を驚かせ、そして「出っ歯」に対する世間の評価を変えた。
「いいよな、出っ歯って、俺なんか、歯が出てないからどうしても弦で唇を切っちゃうんだよな」
 などと「出っ歯」は欠点どころが誰もがうらやむ身体的特徴となってしまったのである。その価値の変容ははかりしれない。これもまた「大きな歯ぐき」と共に時代が変るにつれ欠点が美点に昇華した例である。このように欠点というものはときに文化をも担う可能性を秘めたものであると言ってよいのではないだろうか。
 欠点が美点に変化するのは何も身体的なものに限らない。精神的な欠点も大きく人類の発展に寄与してきた。たとえば「無鉄砲」という性質がある。言葉からすると一五四三年の鉄砲伝来以降の性質だと思われるが、おそらくそれ以前にも「無弓矢」だとか「無鉄剣」だとか「無銅剣」だとか「無魔製石器」だとか「無黒曜石」だとか「無チョップ」だとか呼ばれていた「無鉄砲」に類する性質もあっただろう。人間の性質なんて今も昔も大して違いがないのである。そしてこの「無鉄砲」という性質はかなりのところで欠点とみなされていた性質であろう。やはり「慎重」だとか「分別がある」といった性質に比べると重みに欠ける。そして無茶なこともしたことであろう、無鉄砲な人は。しかしこの「無鉄砲」という性質のお影で現代の我々は「二階から飛び降りても死なない」「ナイフが小さければ手を切っても跡が残る程度で大丈夫だ」「上司に渾名をつけても構わない」「毎日温泉に行くのはちょっとどうかと思われる」「少なくとも教師にはなれる」「すぐにやめても電鉄会社に勤められる」「清と同じ墓に入ることが出来る」といった様々な利点、教訓を得ることが出来たのである。一見、欠点だと思われる無鉄砲さが我々の文化を向上せしめたのである。こうなればそれは欠点というものではなく、むしろ美点と言うべきものではないだろうか。
 また「口が卑しい」というのもそうである。今でこそ美味いものを喰うというのは何ら恥ずべき行為ではないが、かつては「己の欲求に抗えない者」として糾弾されていただろう。「口が卑しい者」は何でも食べる。鉛筆、消しゴムといった文具はもちろんのこと鼻くそ目くそといった老廃物までも口に入れる。これでは「口の貴い者」に嫌われるのも道理である。しかしながら視点を変えてみると彼ら「口の卑しい者」のお影で我々の食生活は大きく変ったことがわかる。あの虚心に眺めてみれば排泄物としか思えないカレーを日々美味い美味いと口にすることが出来るのは彼らのお影であるといっても過言ではあるまい。おそらく初めてカレーを見たものはその異様な形態に驚き、これが食い物なのかと疑ったはずである。こういったものを喰うことができるのは、知性でもって「これはカレーという食べ物である」と思い込むことができる人か、どんなものでも口にしてみる「口の卑しい者」か、インディのカレーの香りを嗅いた人かに限られているはずだ。いつの世でも知性のある人間は少ないし、昔はインディなどなかったのだから、これほどカレーが普及し、なんとなればカレーという言葉を頭に浮かべるだけで唾液が分泌される者さえ現われているのは、この「口の卑しい者」たちの熱心な卑しさのお影である。けっして軍隊の食事に採用されただとかいったもっともな理由ではなく、「口の卑しい者」たちのカレーを喰う様があまりに美味そうだったからに違いあるまい。これも日本の食生活ひいては文化を変革させた例である。こうなれば「口の卑しさ」とは欠点どころか優れた能力であると言えよう。
 このように欠点こそが未来を明るくする根源だと思えるのだが、そこで「駄目」である。これも現代では性質における欠点だと認識されている。何せ「駄目」である。これは欠点以外の何ものでもない。しかしこれまであげてきた欠点と同様、これからの時代どうなるかわからないのである。何らかの理由で突然美点に変ることもありうる。わたしが生きている間に「嗚呼、駄目でよかった」と思える日が来るかもしれない。いや絶対来るはずだ。そういう可能性をもった駄目であるのだから、もう少し愛をもって接してくれればと今日のところは謙虚に警告しておこうと思う。


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