其の115 移動していただく


 人として生まれたからにはあくまで向上心をもって己を高めなければならないのではないか、最近そう思うのである。向上心、なんて甘美な言葉であろうか。向上心、なんと輝かしい言葉であろうか。甲状腺異常とは違って素晴らしい響きの言葉である。これまで二十七年間駄目人間として生きてきたので、向上心とは程遠い生活をしてきた。己を高めるだとか、頑張るだとか、努力するだとか、そういったことは人に言うだけで自分に言い聞かせたことなどまったくなかった。向上心なんぞ向上心のある人間に任せておけば良い、適材適所というものがあるではないか、そう考えてきたのであるが、それも今年をもってやめにしたいと思うのである。そうである。向上心のある人間に生まれ変わるのである。人として一まわりも二まわりも大きくなるのだ。
 宣言するだけなら誰にでも出来るものだ。やはり具体的にどうグレードアップするのか、これが問題なのである。方向は二つあると思われる。一つは努力を重ねて自分の能力の向上をはかることである。ギターの演奏にたとえるとタッピングの音が奇麗になるようにすることやペンタトニック・スケール以外のスケールを覚えることやチョーキングの音を四分の一音レベルまで調節出来るようになることや指がつりそうなコードを使いこなせるようになることなどにあたる。つまり能力の上限を引き上げる方向である。そしてもう一つの方向は数多い欠点に目をつぶる方向である。これをギターの演奏にたとえると複雑なリズムの入った曲を弾かないようにすることや覚えきれない程の複雑なコード進行の曲は聴かなかったことにすることや自分よりギターの巧い人と一緒に演奏しないことやギターという楽器のない国に移住することやギターなんて楽器はなかったことにすることにあたる。つまり弱点というものを切り捨てるわけである。そうすることで平均値をあげるのである。どちらの方向も捨て難いがやはり向上心というからには前者を選びたい。
 そこで取り敢えず克服せねばならないことはないかと考えてみた。真っ先に思いついたのは怖がりを直すことである。怖がりは駄目だ。うら若き乙女なら兎も角、立派な大人としては怖がりであってはいけないのではあるまいか。一人で残業するのが怖くて仕事場から逃げ出すようでは駄目人間とかいうよりも人としてあまりに情けない。そこで手始めに怖がりを直すことにしようと思う。
 怖さとは何か。それは想像力である。少なくともわたしの場合は怖さとは自ら作り出す想像力の所為である。たしかに物質的な怖さというものもあるだろう。たとえば尖ったものの先が怖い、妻が怖い、犬が怖い、ぬめぬめしたものが怖い、カードローンの請求が怖い、狭いところが狭い、広いところが狭い、床擦れが痛い、饅頭が怖い、次に熱いお茶が渋い、あと酒なんかあったら怖い、チーズ鱈が怖い、人様々であろう。しかしこういったものは遠ざけるだけで解決してしまう怖さである。だが想像力は違う。想像力はなくしてしまうわけにはいけないし、また勝手に頭に浮かぶものだから本人の意志に関係ないのである。こいつをコントロールすることはわたしの能力云々ではなく誰だって不可能である。では怖さの根源である想像力をコントロール出来ない以上怖がりを克服できないのか。いや出来るのではないだろうか。やむことなく溢れ出る怖いものを捨て去ることは出来ないが、若干の軌道修正は出来るはずである。
 たとえばである。深夜の仕事場でふと廊下の方で何やら音がする。つるつるの廊下をすうっと何かが滑るような音がしたとする。理性的な人間なら「紙かゴミかが風か何かで移動したときの音じゃないか」だとか「気のせいだ」と考えるところだろうが、怖がりさんであるわたしは違う。「小さな老婆が正座のまま廊下を滑っているのではないか」と考えてしまうのだ。すう、すうっと廊下を滑る正座の老婆。これは恐怖以外の何物でもない。しばらくの間は廊下に出ることなど出来ないし、出るとなったら目を瞑って出るしかない。そこで想像力の軌道修正を行うのである。真っ暗な廊下だから正座した老婆が怖いのである。だから廊下を正座しながら滑っていたいだろう老婆には申し訳ないが少し場所を移動していただく。ボーリング場にである。一斉にレーンを滑ってゆく正座をした老婆。ピンめがけて滑ってゆく正座老婆。ストライク、ありゃスプリットだよ、あらあらガーター、やったぜターキー。これなら怖くないのではなかろうか。たとえ老婆が廊下のと同じように滑っていようがボーリング場ではかなり恐怖感が薄れるのではないか。しかし軌道修正はここまでで先に進んではいけない。深夜ふと覗いてしまった真っ暗なボーリング場ですうすうっと滑っている正座老婆を想像してしまうとより恐怖感が増すので注意が必要である。
 また学校の怪談というのもある。上りは十二段だが下りは十三段になっている階段。その学校で死んだ者が座っていた机が並べられている教室から聞こえる笑い声。深夜の音楽室から聞こえてくるピアノの調べ。トラックを走る二宮金次郎像。うめき声が聞こえるトイレ。笑う人体模型。そしてこれら怪談を目撃した者に与えられるものは死なのだ。列挙しているだけでかなりの恐怖を感じているのだが、こういった学校の怪談の恐怖というものは学校という存在自体が内包している恐ろしさが具現化しているように思える。喧騒と静寂のコントラスト。これが他愛もない話を恐怖へと変換しているのである。そこで若干の軌道修正をするのである。これら学校の怪談にも悪いがちょっと場所を移動していただく。申し訳ない。老人ホームへと皆さん移動してもらうのである。上りと下りの段数が異なる階段。これは上りがきついと感じる老人への配慮である。下りは若干急だが上りは緩やかに出来ているのだ。死んだ者が寝ていた布団から聞こえる笑い声。これは全ての布団で誰かが死んだのだから仕方ないのである。笑っているのはトメ八十三歳。彼女は大木こだまひびきの漫才がお気に入りだ。深夜の食堂から聞こえてくる読経の響き。これはタダシ七十二歳の毎晩寝る前の習慣である。庭先を走る二宮金次郎八十七歳。名前がお気に入りの元気者。毎朝のジョギングで快食快便だ。勿論ジョギングの後の乾布まさつも忘れないぞ。うめき声が聞こえるトイレ。老人というのは意味もなくうめくものなのだ。笑う人体模型に似たがりがりのスエキチ七十九歳。彼の口癖は「わしゃもう死ぬ」だ。そしてこれらの出来事を目撃した者に与えられるのは死なのだ。だって老人ホームだから、ねえ。
 これで大丈夫である。これで学校の怪談も怖くない。このように想像してしまった怖いものにちょっと場所を移動していただくだけでかなり恐怖感が薄れるのである。これで怖がりともおさらばである。そして人としてより大きくなれるというものだ。
 この想像力の軌道修正という方法はかなり良い作戦だと思えるのだが、先程恐怖感を克服する方法として妹君に語ったところ「怖がりを克服したところでやっと人並なんだからやっぱり駄目なんじゃないの」、その上「そんなこと考えている暇があったらもっと貯金するとかした方がいいんじゃないの」と言われてしまった。冷たいぞ、妹よ。人というのは身近な人間がより大きな人間に成長しようとするのを妬ましく思うものなのだと現実からは目を背けておこうと思う。


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