其の106 怖い人


 わたしは臆病者だ。かつ卑怯者でもあるのだが、それは取り敢えず別にして非常に臆病者なのである。普段の雑文からは、豪胆、冷静沈着、寡黙、金持ち、ハンサム、きれい好き、カレー好きくらいしか伺えないかもしれないが、実は非常に臆病なのである。どれくらい臆病かというと小学二年生のとき通知票の所見に「ほんとうに臆病なんで驚きました。怪談をしているとハンサムで知的な顔が真っ青になってぶるぶる震えていました。それで三つある怪談のうち一つしか出来ませんでした」と概ねこういったことを書かれたくらいであるから自ずとわたしの臆病さが解るであろう。しかし通知票に「臆病」と書かれた人間というのはどれくらいいるのか知りたいものである。そういえば一年生のときの通知票の所見には「給食をこれ以上ないくらいおいしそうに食べています」と書かれていた。そして三年生のときの通知票の所見には「楽しそうに学校生活を送っているようです。クラスのみんなにもその楽しさを分けようとしているのか、面白いことを言ってクラスメイトを笑わせようとしているのですが」と書かれていた。どちらも改めて考えてみるとちょっとどうかと思われる所見である。
 それはそうと臆病である。わたしの職場にはどういうわけか子供が沢山集まるので常に喧騒の中で職務に励んでいるのだが、それはあくまでも子供がいるときだけであって、子供がいなくなってしまえば急に静かになる。だいたい学校の放課後を想定してもらえばその雰囲気は解ってもらえると思う。そして仕事熱心なわたしは静寂の中残業に励むわけであるが、学校とは違って時間は既に深夜の域に入っており、気づいたら夜中の二時というのも珍しくない。だいたいそういうときはラジオを聞きながら仕事をしているのだが、それでも深夜に独りで仕事をしていると途方もない想像をしてしまって急にその場にいられなくなるのだ。それで仕事を急いで止めて家に帰るのが深夜の残業のうち三日に二日はあるのである。納期というものがない仕事なのでその点は気が楽なのだが、怖くなったから家に帰るというのも社会人としてどうかと思う。
 では如何なる想像をしてしまうかというと、それは昼間の気持ちが大きくなっているときなら笑ってしまう類なのだが、たとえば夜中の仕事場で紙をひたすら折っていたりする。この作業はまず左手で紙を取り目の前に置く。そして縦横と順に折ってゆきそして右下に置いてある段ボール箱に折った紙を入れる。この作業を淡々と繰り返すだけである。であるからついつい機械的に手が動いてしまう。そしてスピードが徐々にあがってゆき、一々左にある紙の方を見なくとも正面に置いてある紙だけを見て作業が進んでゆく。するとふと今何をしているのだろうかと正気に戻るのだが、そのときである。「何だか解らない人が左にいるのではないか、そしてわたしが左手で紙を取ろうとすると『あいよ』などと合いの手を入れて紙を手渡してしまうのではないか」という想像に取り付かれてしまうのである。そうなるともう駄目である。その想像で頭がいっぱいになるのである。しかしだからといって左の方を確認せずに作業を進めることは到底出来ないので、ついつい左に首を振って「怖い人」がいないことを確認してしまうのである。実際目が合ったりしたらおそらく気絶してしまうだろう。そして「怖い人」が近づいてきて、あろうことかチーズをわたしの鼻の周りにあてがったりしたら「ジョセフィーヌ、今夜は勘弁してくれ」などとうわ言を繰り返すだろう。それくらい怖いのである。深夜に独りで仕事をしていると。そして「左にいる怖い人」妄想のピークがやや過ぎると今度は右手が心配になってくるのである。わたしは工事現場の監督のように「右よし、左よし」と左右に首を大きく振りながら作業をするというかなり間抜けなことになってしまうのだ。
 わたし以外にもしているのかもしれないが、何だか漠然とした恐怖に取り付かれたとき鼻歌なんかでその気持ちを護魔化そうとしたりすることもある。深夜の仕事中もラジオでかかっている曲に合せて歌ったりするのだが、恐怖の度合が上がってくるとそれに比例して鼻歌が熱唱に変わってくるので何だか仕事場は大変なことになってしまう。カラオケなんかでは飛ばしてしまう「うぉううぉううぉー」だとか「幸せだなあ」だとかいった部分も大声である。あまりに熱唱してしまうので仕事にならないのである。そこで仕事を止めて帰ろうとするのだが、そのときラジオの電源を落とすので急に静寂に包まれてしまう。あまりの恐怖の為、更に大声で熱唱しながら帰り支度をしていると、今度は「歌っているときに『歌好きの怖い人』が歌に合せてコーラスをしてきたらどうしよう。あろうことかハモってきたりしたらどうするのだ」「そしてハモってきた『歌気好きの怖い人』の歌につられてハーモニーがユニゾンになってしまったらどうするのだ。怖い人に叱られるではないか」という新たな恐怖でいっぱいになって「この曲を歌いおえるまでに仕事場から出なければ死ぬ」とよく解らない掟を勝手に作って走りながら仕事場から出るのである。もはや大人とは言えない怖がりようである。ついでにいえば深夜の仕事場で後ろの方から物音がしたりすると気づけばファイティングポーズを取ってしまっていたりもする。
 今思えば妙な想像で勝手に怖がっていたりする子供であった。小学校に上がる前は「ドラキュラが来たらどうしよう」とトイレの中で用をたしながら恐怖におののいていた。何故ドラキュラなのか、そしてわざわざ大阪に住む幼稚園児が気張っているトイレに現われるのか理解に苦しむ。また小学校の頃は「乳母車にぬいぐるみを乗せて町をうろつきまわる老婆」が家にやってくるのではという恐怖によく取り付かれていた。この老婆は実在の人物であり、現在も元気に町を徘徊しているのであるが、最近は乳母車に乗せるぬいぐるみを二つにしたようで、それは腹から綿が少し出ているくまさんと、耳が片方とれたうさぎさんで、この二つのぬいぐるみを向かい合わせて紐で括りつけている。
 これほど怖がりなのにどういうわけか怖い話をするのは好きで、勝手に創作までしてよく怖い話をしたりするのだが、これはおそらくわたし以上の怖がりさんを見つけだしたいからであろうか。今のところ一人だけわたしより怖がりの人物を知っているが、その人物に怖い話をすると「頼むからやめてくれええ、カレーでもなんでも奢るから」というので、金欠の際は便利だったりするのである。


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