其の98 犬の生活


 わたしは今傷ついている。それはそれはもう傷ついているのである。もし悪魔が「もし死ぬんだったらさあ、三つまで願い事を聞いてやるよ。その後の魂はおいらに預けてくれればいいからさ、へへへ、おいらの尻尾は尖がってるぜ」などと言われたならすぐさま「カツカレーの大盛りを腹一杯食べた後に美しい女性の膝枕でぐっすり眠った後仕事もせずに気づいたら銀行にお金が沢山振り込まれていてその利息だけで一生暮らせた上皆に愛されて寿命が来たら畳の上を死ぬこと」と「ふとギターを弾いてみるとジミ・ヘンドリクスの腕前が備わっていてたまたま好きなフレーズを弾いてみると美しい女性が側によってきて気づくと膝枕をしてもらっていて眠っているうちに銀行の口座には一生かかっても使いきれないくらいのお金が振り込まれていて皆に愛されて寿命が来たら安楽に死ぬこと」と「アイマックを手に入れる」というささやかな願い事を叶えてもらってすぐさま二階から飛び降りてみせるくらいに傷ついているのである。
 理由は聞かないで貰いたい。折角借りていた金を返しにいったのに知人にいきなり「金置いて今日は帰ってくれ」と追い返されたことは聞かないで貰いたい。これ以上ズタズタのぼろ切れのようなわたしを追い込まないで欲しい。
 知人宅からの帰り、悔し涙をふきつつ車に乗り込み取り敢えずカレー屋「インディ」へと向かった。今の堪らない気持ちを押さえるにはカレーしかないのだ、そして俺にはカレーしかないのだ、そう考えながらインディへと向かったのである。しかし身内にまで見放されたか。「本日九時閉店」の看板である。どういうことなんだ、インディよ。お前まで俺を裏切ると言うのか。わたしの後ろには漫画的手法の「がーん」だの「びょーん」だのといった音が飛び交っていた。顔には斜線まで入っている。わたしの心は「信長の野望-将星録-」でいうところの士気が三十にまで落ち込んでいる状態だ。更に言えば城の防御度が忍者の工作によってレベル三にまで落とされたような気持ちである。そして拳を固く握りながら考えた。今日はちょっとどうかしている。元々運が良い方ではないが、そんな高望みとは程遠い願いすら叶えてもらえないとはどういうことなんだろうか。そうか、そうなのか。今日は家でじっとしておれという神様の導きなのか。ふつふつと怒りが沸いてくる。そして車に乗り込み叫んだ。
「知人よ、インディよ、神様よ、俺はそんなことでは屈しないぜ、ベイビー。くそう、そんな楽しいことをしていたのか、悔しい悔しい悔しいと三回言わせてみせるくらい今日は楽しんでやるぜい。今日の俺は誰にも止められないぜええ、ぐばばばばああ」
 そして大阪は十三の漫画喫茶へと車を走らせた。
 毎週雑誌は百冊仕入れているそうで、二万冊以上の漫画があるそうだ。別段読みたい漫画があるわけではないのだが、暇つぶしにはもってこいである。取り敢えずと言いながらあだち充の「みゆき」を全巻読破し、ついでに「キン肉マン」の最強タッグトーナメントシリーズを読破する。小学生、中学生の頃は小遣いも少なかった為殆ど立ち読みで済ましていた漫画ばかり手にする。懐かしい。そしてドリンクは飲み放題になっているのでがばがばコーヒーを飲めるのも良い。店内のBGMはずっとビートルズである。結局閉店まで粘り残り数冊で結末に至る漫画に未練を残しながら店を後にした。
 深夜二時である。やってきたときの喧騒からは想像も出来ない程閑散としている。車が置いてあるところまで歩きながらしみじみと僅かな幸福感に浸る。
 家に到着すると最近はまったく迎えに来ない犬のコロが珍しく玄関までやってきていた。コロの頭を撫ぜながら呟く。毎日こんな日ばかりじゃないよなあ、明日は今日よりも楽しい日が待ってるさ。いや絶対に楽しい日がやってくるに違いない。コロはハッハッとやや興奮しながらまとわりつく。こらこら、そんなに哀しい顔をしているか、お前に慰めてもらわなくても大丈夫だって。わんわん。そうかそうか、慰めてくれるか。んー、そうかそうか。コロ君、嬉しいですか。んー、んー、そうかそうか。行きたい、行きたいの、お散歩行きたいでしゅかあ、んー、んー、そうでしゅかあ……ハッ、これぢゃ父上と同じぢゃないか。ま、いいか。明日は楽しいことが待っているのは解っているし。そう明日は今日の続きを読みに行くのである。


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