其の93 運転君


 わたしは恐らく同年代の人間の中でもどちらかというと子供に囲まれている方であるが、もっともそれはわたしがサド侯爵でもカサノヴァでもマイケルでもなく、ただ中学生や小学生に囲まれるのが宿命づけられた職業に就いているからであって、それは成り行きといったものである。
 というわけでわたしは小学生に漢字練習を命じたりもする。それもこれも学生時代に就職活動を怠った所為である。
 学生時代の就職活動の時期に本ばかり読んでいた所為で「ええと、間違った漢字を二行づつ」などと小学四年生の運転君に命じたりもしているのである。運転君の父上は沖縄出身だそうで、沖縄ではかような名前は珍しくないらしい。小学生というのは生意気な生き物なのだが、それほど知能も発達していないので、こんなわたしの言うことでもそれなりに素直に聞き、嫌々ながらも間違えた漢字を二行づつ漢字ノートに書き写すのであった。ちなみに漢字練習帳の最近の主流はかつてわたしが小学生の頃使っていた昆虫や動物や花の写真が表紙のジャポニカ学習帳ではなく、ムツゴロウの漢字練習帳である。表紙はムツゴロウ王国にいるかどうかは解らぬが何だか珍しい動物の写真であり、裏にはムツゴロウがその動物を愛護している写真とともに表紙の動物の解説なんぞを載せていたりするのである。「ううん、眼がねえ、眼が優しいんですよお、んー、眼が優しいんですよお」みたいな解説だったと思う。ムツゴロウは小学生の学習用品のキャラクターとしてはキティちゃんと並ぶ勢いなのである。
 そのムツゴロウ学習帳に漢字を練習させるのだが、漢字に弱い運転君は他の人よりも多く間違いを直しをしなければならないので今日は少し居残りをしなければならないようだ。うんうん言いながら一所懸命に漢字を練習するのであるが、わたしが目を離すと、「耕す」という字の練習を一マスおきに「 」「す」「 」「す」「 」と書いてから、次に「井」「す」「井」「す」、そして「耕」「す」「耕」「す」などと完成させようとするものだから油断がならないのである。この運転君は。他の小学四年生の方を見ている振りをしていると案の定運転君は早速「経験」という熟語を「糸」「馬」「糸」「馬」と始めるものだからわたしは「それぢゃあ練習にならないぢゃあないか」と運転君の首を掴むのであった。
 などと運転君を気にかけながらも他の小学生の漢字練習を眺めていると、運転君はふうと溜め息をつくのである。
「どうした」わたしが訊ねると丁度運転君は「最長」という熟語を練習しているところである。
「どうしたんだ。早くしないと今日帰れないぞ」
「うん、わかってるんだけどね、ちょっとつかれたから」
「そりゃ十問の漢字テスト八問も間違ってたらやり直しも大変だ。しっかりと練習してこないから悪いんぢゃないか」
「うん、わかってるけどねえ、このね、この字がね」
「『最長』がどうしたんだ。覚えられないのか」
「そうぢゃなくて、この『長い』っていう字ね、ぼく苦手なんだ、うまく書けないんだよ」
 ははははははは、こやつはあれだ、うまく書けぬのである。「長」を。なかなか見所があるではないか。栴檀は双葉より芳し。はや小学四年生にして「長」を上手く書けないから溜め息をつくなんてやるぢゃないか。
「しかしいくら『長』という字が苦手だからといってそれほど溜め息をつかなくてもよかろう。先は長いんだから早く次の字に移りたまえ」
「でもね、あんまり寝てないからつかれているんだ」
「そうか、昨日夜遅くまでテレビでも見てたか」
「ううん、ちがう。昨日初めて金縛りにあってね」
「金縛りかあ、そいつは大変だ」
「そうなんだよ。いきなり体が動かなくなってね、それで何か上にのっかられているような感じがするんだ」
「うむ、金縛りは疲れているときにおこるっていうからなあ」
「それ知ってる。つかれているときに金縛りにあうんだよね」
「お、そうか知ってるか。そうかそうか。どこぞの馬鹿な中学三年生の女子は霊の所為だと言い張るんだが、それに比べ君はよく解ってるではないか」
「そうだよ。だって言ってたもの金縛り研究所の人が」
「ふぇ、なんだ、そ、その金縛り研究所というのは」
「近所のおじさんがやってるんだ。金縛り研究所って看板あるから」
「近所にあるのか、金縛り研究所という怪しげなものが」
「怪しくないよ、おじさん優しいし、お菓子くれるし、色々な話をしてくれるんだ」
「ふむ、どういう話をしてくれるんだ。その金縛り研究所のおじさんは」
「アメリカ人の中に宇宙人がこっそり混じってるとか、UFOは日本に沢山来てて悪い電波をまいているとか、ええとあと前世は何かとか……」
「い、いかーん。そ、そんなとこいっちゃいかんぞ、お菓子に釣られちゃ駄目だ。そのおじさんは優しいかもしれないが、あまり話を聞いちゃ、いかんいかんぞ。いかんのだ」
「どうして? おじさんの前世はキリストなんだって」
「キリストだろうが駄目なものは駄目なんだ。そのことはお母さんは知っているのか」
「おじさんが言うんだ。お母さんに話したら宇宙人にばれるから言うなって」
「そうか。ではどうしてわたしには言うのだ。お母さんに言うかもしれないだろ」
「あ、そうか。そうだね。でも、ま、いいや」
「何がまあいいのだ。そこんところはっきりと言いたまえ。気になるではないか」
「まあいいぢゃない。あ、やり直し終わったから帰るね」
「ちょっと待て、そんなに早く終わる訳ないだろ」
「ほんとだよ。ほら、ね」と言って運転君がわたしに見せたのは、漢字でぎっしり埋まったノートであった。しかしちょっとおかしい。間違った漢字の練習はすべて出来ているのだが、どうもおかしい。字のバランスが妙なのであった。
「こらっ、またやっただろ。きちんと順番に書かないといけないだろ」
「いてててて、ちゃんとやったったよお、首掴まないでよお」
「そうか、目の前で一マスおきに漢字を書いて気づかないような奴には、金縛り研究所のこと喋っても大丈夫ということか」
「いてててててて、ごめん、ごめんなさい、離してよお」
「これからきちんとやるか」
「やるからさあ、離してよお」
 まったくこいつだけはしょうがない奴である。
 そうそう、誰か一緒に金縛り研究所に行ってくれる人いないでしょうか。洗脳されない自信のある人で。


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