其の61 今日も平和だ


 日本人は何でも道にしてしまうので、合理性がなくなって、その権威は形骸化してゆく。中島らものエッセイでこういうのを読んだことがあるのだが、なるほど尤もである。例えば格闘技ひとつにしても段位やらを設定してその人の強さを表すわけだが、柔道などの高段位者をテレビなどで見るとよぼよぼの爺さんだったりして、これが日本柔道界で最も強いとされている一人なのかと思うと、なんだかやるせなくなる。たしかにかつては強かったのかもしれないが、いまじゃ徒のよぼよぼぢゃないか。ボクシングの世界だったりすると常にランキングというものがあるので、よぼよぼの爺さんがいつまでも世界ランカーでいられるわけもなく、次々と若き兵共へとその栄光は受け継がれてゆくのである。つまりは肩書きは元チャンピオンへと変わり、そして彼の雄姿は人々の記憶の中に留まるのみとなる。
 格闘技からして日本においては道にしてしまうので、その本質が失われてゆくことが多いのであるが、他のことにしても同じである。例えば珠算というものがあるのだが、知っての通り段位というものが設けられていて珠算を学ぶ者は如何に高段位へと進むかがその主眼となる。最近のことだが、珠算について考察してみた。すると意外や、珠算における最高峰は何をしておるのかまったく見当がつかないことに気付いた。計算してるんだろうな、それだけは何となく解るのであるが、どんな計算をしているのかと問われれば答えに窮する。整数や小数の足し算とか引き算とか掛け算とか割り算とかそんな小学生が学校で学ぶような計算などしているのだろうか。いやいや、その道の最高峰であるから、そんな単純な計算などしているわけがない。あの算盤を巧みに使って平方根表など使わずとも平方根の近似値なんかを出しているに相違ない、などと考えに耽っていると、偶然わたしの知る中学生で珠算を学んでいる者が目前に現われた。彼はコロコロコミックを愛読し、そしてヨーヨーの大会などに参加するような子供の純真さを失っていないのだが、それでも手淫に夢中になっているだろう、年の頃なら中学三年生の男である。
「それでだ。珠算というものの最高峰は結局何をしておるのだ」
「計算」
「馬鹿者。そんなことは解っておる。わたしは馬鹿ではないのだぞ」
「……カレーばっかり喰ってる癖に……」
「う、カ、カレーを毎日食することとその人間が馬鹿であることとはまったくの因果関係がない。毎日カレーを喰ってるという事実から導かれる結論は一つだ。その人はカレーが好きだ、この一点のみである。言葉は前後の文脈から類推して正確に使用するように。で、どんな計算をしておるのだ」
「知らん」
「知らんって、君はそんなことも知らんのか。それに目上の者に対する言葉遣いも知らないようだ。学習しただろう、尊敬語と謙譲語と丁寧語というものを。毎日カレーばかり喰っているからといってもわたしが目上の者であることは貫禄や風格、それに顔の老け具合から類推できるはずだ。それなりの言葉遣いをするように。しかし知らんってどういうことだ。己が極めたいと思っているその最高峰がどんなことをしているかくらい解らないで何が珠算だ、算盤だ。今一度訊く。君は本当に珠算をしておるのか」
「うん、三級」
「そうか。では段位というのはどこまであるのかは知っておるか」
「うーん、たしか十段くらいまであると思うけど」
「ほう。ではそこに至るまでいかなる勉強をせねばならぬのだ」
「桁数の多い計算」
「な、ただ単に桁数が増えるだけなのか。平方根とか和集合とか微分とかはせぬのか」
「だって、算盤だから」
 たしかに算盤は計算の為に使う道具である。数学的なものの為に使うものではない。しかしどんなに凄いものかと色々想像した割に単にこれまでやってきたことを量的に増やすのみだったとは些か拍子抜けである。
 我々のアカデミックな会話に聞き入っていた者がいた。いつの間にか隣にいたのだが会話に熱中していた為かずっと話の内容を聞かれていることに気付いていなかったのである。
「ぢゃあ、五段とかになっても背中に算盤持って計算したりはしないの?」
 久方振りの登場ではあるが件の霊感少女である。
「それとか歌いながら計算するとかはしないの?」
 がはは、それぢゃあトニー谷だって。わたしもお調子者である。
「そうそう、右腕をぐるぐる回しながら計算したり、歯で算盤弾いたりなあ」
「……へえ……そういえば最近スピードのダンス覚えたから教えてあげる」
 彼女はいきなり踊りだしたのであるが、ちなみに彼女も中学三年生である。しかし誰も突っ込んでくれはしない。当たり前か。ピート・タウンゼントとかジミー・ヘンドリクスなんて知ってる中学生などいるはずもないか……
「……それフーだって」
 小声で突っ込んだのはまたまた知らぬ間にわたしの背後に陣取っていた中学三年生である。彼は続けて言った。
「……ロバート・フィリップのCD持ってる?」
 わちゃあ。ロバート・フィリップとは。中学生の聴く音楽ぢゃないぞ。
 しかしスピードのダンスをしている霊感少女やら口の聞き方知らん算盤中学生やらロック少年やら、あんたらほんまに同い年かい。
 結論。日本は平和だ。 


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