其の59 ムーミンからバカボンへ


 友人にバカボンがいるというとお笑いになるだろうか。実は名前がバカボンなのでした、などという卑怯な話ではない。それはそれで凄いことだとも思うが。
 彼は中学時代「ムーミン」という愛称で呼ばれた男であった。しかし捻りがないのかニックネームはバカボンだとかムーミンだとか漫画のキャラクターばかりであるな。それはさておき、彼はどんなときでも笑いを忘れない愉快な男だった。彼とは比較的仲が良い方だったので、たまにだが校外で遊ぶこともあったように記憶している。高校生になってからは学校が違うこともあって、誰もがそうなのだろうが、やがて疎遠になっていった。ただ彼とは家が近所だったことも手伝って、コンビニなどで顔をあわせることもあったのだが、「やあ」などと再会を祝うという程久しぶりだということもない上、わたし自身ひどく人を遠ざけていたものだから、声をかけるということもなかったのである。もっとも彼にだけという訳ではなく、中学時代の友人の誰でも会っても知らぬ振りをしていたのであるが。
 長い大学時代を経て、仕事を始めて暫くたってのころ、彼はわたしの前に現われた。コンビニで雑誌の立ち読みをしていたわたしの横に立ち、そして彼はいきなりわたしにこう声をかけたのである。
「かっこいいなあ、そんな格好して」
 ぎくっとしたのは当たり前でそのときわたしは週刊プレイボーイのグラビアをもの欲しそうに眺めていたからである。さっと活字記事に移り、ずっとこのページを読んでいたんだぞという顔をして声をかけてきた男の方を向いた。
「あ、ああ、ひ、久しぶり」
 ムーミンであったのだが、この年になって「やあ、ムーミン」などと言えるはずもない。そして彼と目を合せた途端わたしは彼のあまりの変わり様に一歩下がってしまった。彼は薄汚れたジャージにまだ肌寒い季節だというのにぼろぼろのティーシャツという出で立ちであり、そして髪はぼさぼさ、顔は何年も洗ったことがない程目脂が溜まっており、そしてだらりと異様に伸びきった鼻毛をしていた。一目見て「バカボンだ」と感じてしまったのだが、まあこれくらいの汚い格好の奴は大学にもいたから珍しいわけでもない。深夜だから寝起き姿そのままでコンビニに来たのだろう、そのくらいに考えて彼と向き合った。
「い、い、いいなあ。格好いいなあ。モテルだろうなあ。凄いなあ」
 たしかに自称美青年なのだが、面と向かって言われたことなどかつて一度もない。このときが初めてである。彼は中学時代なかなかギャグセンスのある男だったので、久しぶりに会ったにしては直球過ぎるが、彼なりの再会の挨拶なのかもしれない。ここでおたおたしたりすると、後で同窓会などで「あいつは洒落を解さない男になった」などと言われかねない。わたしは彼に返した。
「お前こそ、中々男前な格好して。その格好最近のロンドンのストリートで流行ってるらしいな」
 しかしロンドンのストリートって徒のロンドンの道路である、などと考えながらも彼がどう返すかを待っていた。昔の彼ならここで直に「どこが格好いいねん!」と突っ込んでくれるはずだ。しかし彼はぼそっと言った。
「お、俺なあ病気なのだ。せ、精神的になあ、ずっと、病院通ってるのだ」
 あちゃあ、そのままやんけ! という突っ込みなど出来るはずもなく、さりとて同情するのも気がひける。しかしその語尾はやめてくれ、笑ってしまうぢゃないか。
「はあ、そうか、大変だな」
 そうは言ったもののここに至ってもまだムーミンがわたしを笑わそうとしているのでは、という疑念は晴れていなかった。素直に彼の言うことを信じるかそれとも昔のように突っ込むか逡巡していたため、非常にびくびくしながら彼と対面していた。
「○○君、セックスしたことある?」
 ありゃ、本物だったか。彼は己の股間をモミモミしながら週刊プレイボーイを眺めながらわたしに訊ねるのである。わたしは既に腰が引けている。いきなり走って逃げ出したくなったが、それも怖くて出来ない。わたしは臆病者で卑怯者なのだ。
「気持ちいいんだろうなあ。なあ?」
 さり気なく週刊プレイボーイを置いて、隣の雑誌を取る振りをして、半歩彼から遠ざかった。そのときである。彼は力強くわたしの腕を掴んだ。
「お、女の子、紹介して欲しいのだ。君はそんなに格好いいから幾らでも知り合いの女の子がいるのだ。だ、だから会せるのだ」
 ひ、ひええ、なんてことだ。股間をモミモミしながらわたしに迫ってくる。
「わ、解った、解ったから、落ち着いてくれ。紹介できるほど知っている女の子はいないが、なんとかしよう」
「嘘つけえ、それだけ格好いいのに、手当たり次第なのだ。絶対会せるのだ」
「ほんとだ。知っているだろ。俺が中学時代全然もてなかったこと。でもなんとかするから。この腕を……」
「ほ、ほんとだな。嘘ついたら家に行くのだ。そして無茶苦茶にするのだ!」
「解った解った。だからこの腕を離してくれい!」
 するとすんなり腕を離しそして週刊プレイボーイを再び眺め始めた。勿論股間をモミモミしながらである。その隙に「じゃあ」とその場から離れ、必要な物を購入し、そしてコンビニを後にした。
 結局、彼はまったく女の子を紹介しなかったわたしを詰問しに来るでもなく、コンビニで会うこともない。
 そういえばわたしの住む町には子供を失ったショックの為乳母車にぬいぐるみを乗せて町をさまよう老婆がいるのだが、最近わたしは同じ日に老婆と二度会うという偶然に見舞われた。そのとき一度目と二度目とでは乳母車に乗せているぬいぐるみが違っていたのに驚いた。一回目に見たときにはウサギさんだったのが、二回目にはクマさんに変わっていたのである。結構気まぐれなのか、そういう人々は。


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