其の56 素晴らしいわあ


 仕事に行く前の慌ただしい時間のことである。といっても昼前なのだが。炬燵に入って煙草を喫いながら出発の踏ん切りがつかないままだらだらと寝そべっていたのであるが、そのとき玄関の方からチャイムの音が鳴った。
「どうも」
 深々と頭を下げた訪問者は年の頃なら三十後半、オールドミスといった感のある御婦人であった。しかしいやに礼が長い。いつまで頭を垂れているのだろうか。
 しばしの沈黙の後、ゆっくりと御婦人が言った。
「ほおおおおおおお」
 ん、なんなんだ。思わず身構えてしまった。やけにのんびりとした感嘆を漏らし、御婦人は数回ゆっくりと首肯いて続けた。
「立派な玄関でございますねええ」
 なんなんだ、この人は。目を大きく見開いて玄関を眺めている。しかしマンションの玄関だぞ。
「靴もございますしねええ」
 へ? 靴があるのが立派なのかは知らないが、やけに感心しているのである。
「きちんと並んでいるところなどはこの御家族のきちっとした性格が偲ばれますわあああ」
「それに、この靴箱でございましょうか。立派でございますねえ。桐でございましょうかねええ。職人さんが丁寧に作ったものでございましょうねえええ」
 ちなみにこの靴箱は最近材料だけ買ってきて、父上が「ここの板の長さが合わない」と半べそかきながら苦心して組み立てたものである。しかしこの御婦人の話す間が非常にのんびりとしていて、思わずこちらものんきな気分にさせられてしまう。
「御主人様でしょうか、お若いのに素晴らしいお家をご購入なさって、立派ですわあああ」
「いえ、違います。父の家です」
「へええええ、そうでございましたか、失礼致しましたあ」
 そういうとまた深々と頭を下げた。何やら悪い気がしてわたしも頭を下げる。
「でも、御家族と同居なさっているのは、家族仲が非常によろしいのですのねええ、素晴らしいですわああ」
 ああ言えばこう誉めるのである。どんなことでも誉める方向へと向かうのは凄い。もしわたしが泥棒であっても多分こういうのであろう。
「はああ、お若いのに独りで泥棒なさっているなんて、素晴らしいですわねえええ」
 なんて言うに違いないと思える程、何があっても誉めまくるのである。ここまでくると立派である。
「これから御出勤でございますかあ」
「そうですけど」
「お忙しい中、申し訳ございませんん」
 また深々と頭を下げる。今度はかなり長い。一分ほどである。
「非常にごゆっくりした御出勤なんですわねえ。お若いのに素晴らしいですわああ」
 何がどう素晴らしいのか解らないが、兎に角何にでも感心しているのである。もう十分程経ったであろう。少しイライラしてくる。
「このお召し物も、黒で中々お似合いですわねええ、やはりスーツは黒に限りますわねえ」
 まだ来るか、しかしこの人はいきなり人の家に来て何がしたいのだろうか。我が家に来た目的をまだ訊ねていないことに今更ながら気付いた。
「で、何の用でしょうか」
「はああ、そうでしたわねえ、わたくしうっかりしておりましたわあ。しっかりなさっておられるんですねえ」
「はあ」
「実はですねえ、アフリカのニジェールという国は御存じですかあ」
「まあ、知ってますけど」
「そうでございますか。よく御存じですわねえ。学がおありですのねえ、素晴らしいわああ」
「はあ」
 少し照れる。
「そこのですねえ、学校を建てる為の寄付金としてですねえ。そこで取れた商品を御購入していただきたいのですう」
「え?」
「こちらの商品なんでけどねえ」
 と紙袋から取り出したのはコーヒー豆であった。
「こちらのコーヒの代金のうちの六割が寄付金となっております」
 値段を見ると六千円であった。高いぞ、それ。
「現在、向こうでは学校を建てる為の資金が不足しておりまして、是非とも御協力なさって頂きたいのですけどお」
 怪しい。ほんとに学校を建てる資金になるのか? しかしこれだけ誉められれば気持ちも揺らぐ。
「あ、あのすみません、いや、寄付の方はですねえ、してもいいんですけど……」
 わたしの灰色の脳細胞がこれまでなかったくらいフル回転して言い訳を見つけようとしている。
「あ、いや、うちモルモン教ですので、コーヒーはちょっと……」
 煙草の匂いが充満した部屋で何を言ってるんだか。
「そうでございますかあ。それは残念でございますねえ。信仰心の篤い方ですのねええ。素晴らしいわああ」
「はあ、すみません」
「では、また機会がございましたらあ」
 そういって御婦人は出て行った。しかし怪しいぞ。
 仕事から帰ってきてからこのことを家人に話すと母上が、
「そういえば隣の家にも来て、玄関に靴が散らばってるの見て、中々活気のあるお宅ですのねえ、って誉められたって」
 うぬぬ、侮り難し。


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