其の30 大掃除


 そろそろ年末である。年末というとやはり大掃除である。掃除ではなく「大」をつけた掃除である。大きいのである。掃除が。掃除に大きいも小さいもないのであるが、感謝祭なども「大感謝祭」と「大」をつけたり、呉服市なんかも「大呉服市」などと「大」をつけたりもするのであるから、なんとなくイベントだという意識が年末の掃除に「大」をつけさせているのだと思う。
 さてわたしの部屋であるが、それがなんとも言えず趣き深い状態である。簡単に言うと汚いのであるが、その趣き深さも「いとおかし」というのを通り越して「あはれ」である。まず非常に不安定な所に雑誌類と文庫が積まれている。元々本棚と本棚の間の隙間に、ハードディスクが梱包されていた箱や、サウンドカードの箱、モデムの箱、マザーボードの箱といったものが置かれているのであるが、それらの箱は神がデザインしたが如くきちんと直方体を形作り、そして隣の小さな本棚の高さとほぼ同じになり、天板の表面積を約1.2倍ほど広げるのに一役買っている。その上に本が積まれているのである。地震があった日には真っ先に崩れ落ちるはずである。非常に不安定である。ついでにいうとベッドの下にも見つかると不安なものが隠されている。そして当然のように本棚に収まりきらない本は無理矢理横にして本棚に詰込まれているのだから、ここも地震があれば崩れるはずだ。崩れると言えば、箪笥の上には学生時代のノート類や意味なくハンゴウとか中学時代の技術家庭で制作した本棚も置かれているので、崩れ落ちたら横のベッドの上にそれらが落ちてくるはずである。寝ていようものなら確実に足に落ちてくるのであるが、これはかつての大地震の際、実証済みである。また床には実際に狭いだけに所狭しと色々な物が置かれている。まず目につくのは全く弾かなくなったギターとベースである。それにギターの方は弦が切れてしまっている。次にストーブであり、そして、あちらこちらにある文庫やハードカバーなどの書籍類が散らばっていて、そして極め付きはポリ袋二つである。ごみ箱というものはコンピュータの中にあるのみで、ごみを捨てるときはポリ袋に直接捨てることになっているのである。以前はごみ箱を使用していたのであるが、直に溜まってしまうので、頻繁にポリ袋に移し変えなければならない上に、移し変えるときにごみをこぼしてしまうし、これじゃあなんの為のごみ箱か解らなくなったからである。以上がわたしの部屋の現状と言うか惨状であるわけだ。
 わたしの部屋は物臭が更に屁をこいたような有り様であるのだが、別段困ってはいない。ごみに埋もれて死ぬこともないし、それに汚い部屋というのが苦にならないというからであるが、ときに母上を筆頭に世の人々は何故そこまで部屋が汚いのを厭うのであろうか。わたしには解らない。確かに部屋が汚いと病原菌が湧いて病気になることもあるかもしれないし、部屋が狭くなってしまう。腕立て臥せや、腹筋やヌンチャクなども振り回すスペースがなくなる。それでもわたしは部屋を片付ける労を惜しむのである。理由は、第一に掃除というのが永遠と続く非生産的な行為であるという点である。掃除をしたからといって部屋がいつまでも奇麗であるわけではなく、直に汚くなってしまう。取り敢えず奇麗にしておくかという感覚で掃除を行っている。これが好きになれない。やるのならしっかりとやりたまへと思ってしまう。たとえ掃除を徹底的にやってかなり奇麗になったとしても、その上限は最初の状態である。床を雑巾でしっかりと磨いたからといっても、この部屋に入居したときよりも奇麗になるわけではない。つまり掃除をするということは現状を可能な限り維持する為だけの行為なのだ。いくら頑張っても直に汚くなってしまうというのではやる気も失せるというものである。次の理由として、掃除は自然界の法則に反する行為だということである。エントロピー増大の法則である。あらゆるものはエントロピーが増大する。部屋の整頓という観点においてもやはりエントロピーは増大し、かならず部屋は散らかってゆくのである。確かに部屋という閉鎖系においては掃除をすることによって一時エントロピーは減少するが、全宇宙的に考えれば必ずエントロピーは増大しているのである。そんな細かな所でエントロピーを減少させてどうなるというのだ。人間を含む生物は個体という閉鎖系においてエントロピー増大の法則に逆らって生きているのだが、それはカレーを食べたり、カレーを食べたり、またカレーを食べたりするという快楽が伴っているから、精一杯その法則に逆らうのである。掃除にはそんな快楽はない。であるからわざわざエントロピー増大の法則に逆らって掃除をするのは馬鹿げているのである。
 それなのに多くの人は掃除をするし、しなければならないと思っている。自然界の法則に逆らってまでやりたいことなのかと疑問である。それどころか年末には大掃除までやってしまうのである。しかしこの大掃除という風習はどうかと思う。年が変わるのであるから新しい年に向けて気持ちを新たにしよう、だから掃除をしようというのだろうか。今年の汚れ、今年の内になどと思ってするのであろうか。ということはである。年末が来なければいつまでも大掃除をしないいうことになる。例えばいきなり明石の天文台とかグリニッジ天文台の博士かなんかが、「これまで一年が365日だと言ってましたが、地球の公転速度が遅くなって一年が2190日であることが判明しました」などと発表しようものなら、六年間も大掃除できないはずである。「いやいやあれはただ365日ぐらいたったら大掃除をしなければならないほど汚れるのであって、年末にしなければならないということはないのだ。もし一年が2190日でもきちんと365日くらいたったら大掃除するものである」と考える人もいるであろう。しかしである。365の倍数の日に大掃除であるならば、一年2190日の約三分の二である1460日あたりはお盆ではないか。お盆に大掃除をするとでもいうのだろうか。これでは盆と正月が一緒に来てしまうようなものである。ちょっと困ってしまうのでないか。つまり大掃除は年末だからするのであって、365日というのが汚れの目安になるわけではないのだ。それでは年末は年末として、新しい年を奇麗な部屋で向かえなければならないという風習が崩れれば大掃除などまったくしなくともよいという結論になる。風習というのは文化である。文化といのは極論すれば小さな共同体での決め事ということである。これは時間とともに変わってゆく。宇宙の歴史からすればそんな小さな時間の中での決め事に従うというのはいかがなものであろうか。人間の尊厳にかかわるというものである。とうことでわたしは年末の大掃除をしないのだ。
 しかし、いくら掃除をしないといっても、ごみがいっぱいになったポリ袋が四つも五つも増えてくると流石に不便である。ポリ袋に邪魔されて部屋の奥にいけなくなってしまう。ポリ袋の手前でジャンプしてベッドに着地しなければならなくなってしまう。ベッドの向こうにあるコンピュータがわたしを愛しているなら飛び越えて来てと言っているかのようである。流石にこれでは不便であるので、来年迄には少なくとも潮騒男にならぬようポリ袋を減らそうとだけは思うのである。


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