其の23 鰯の頭も気功術から


 先程偶然テレビを見ていたら、我が学び舎が映っていた。勉学が好きで好きで堪らなかった為都合五年間在籍していたわけだが、ついでにいえばドイツ語は四年間やっていたのであるのだが、それも他の勉学に比べて最もドイツ語が好きだったからに相違ないのだろう。恐らく。テレビの画面ではわたしが在籍した学部の前がまさに舞台となっていたのだが、どうやら街中に猪が出るので取材したというものらしい。しかしわたしは五年間も神戸の街でのらりくらりしていた割に猪を全く見掛けなかったのだが、それは大学に行かなかったからではなく、偶然見なかっただけであろう。画面に映る学生諸君は皆一様に「猪はよく見かけます」とか「この大学の人は殆ど見ているはずですよ」とか「猪を見ていないでこの大学の在籍者と語るなかれ」などと話していたので、今「わたしは本当にあの大学にいたのだろうか」と疑問を感じている。もしかするとその大学に行きたくて堪らなかった植物人間の夢なのかもしれないし、本当は合格していなかったのにもかかわらず大胆にも大学生を装って、あろうことかゼミにまでたまに参加している病んだ人だったので、周りの人も哀れに思って突っ込まなかったのかもしれぬ。心底不安である。更に言えば大学で学んだことなど殆どなく、唯一ドイツ語の格変化の一部を覚えているに過ぎず、ましてや卒論の正式なタイトルや内容は思い出せないのだから困りものだ。「胡蝶の夢」だったのかもしれないなどという考えに傾きかけていたのだが、そういえばこの間送られてきた学科で発行している雑誌の費用をよこせという手紙とともに名簿があり、その中にわたしの名前もしっかりと載っていたのだからと思い直し、これまでの考えを馬鹿馬鹿しいと一蹴するに至ったのであるが、わたし自身己の名前すら間違って覚えているのではという不安だけは常に付きまとうが、きりがないので考えるのをやめることにする。
 さてテレビといえばこの間のことだ。超能力のトリックを暴くとかいうもので、例えばスプーン曲げなど誰でも出来るなどと言っている。ほんとに誰でもサルでもフォークでも出来るのか疑問ではあるが、取り敢えず出来ると言っている。この超能力ハンターの役を演じているのはこの番組の場合、大槻教授ではなく名も知らぬ花のようなどこぞの理科系教授であった。実際はそれなりに権威があって著名な本を書いている人かも知れぬがとにかくわたしは知らなかった。顔も地味であり「科学者は白衣を着ているものだ」という論に則って白衣を着ているので、かえって科学者として認知してしまう、そんな人物であった。その科学者は言う。「科学的に証明できることは必ず出来るんです」ほうなるほど。確かにそうだ。必ず出来るから科学的に証明されていると言えるのだ。同語反復である。しかしなかなか面白い。なんでも出来るのか。そう思っているとその科学者は徐に、熱せられた鉄の棒を触ると言い出した。危険である。熱いぞ、それは。あぶないから止めろ、などと考えているとその科学者はなんの躊躇もなくその鉄の棒に触れたのである。観客からはおおという感嘆の声があがっている。科学者はにっこりと笑って言った。「人間の体は殆どが水分なんですね。だから当然指先にも水分があります。一瞬でしたらこの鉄が発している熱は水分のお影で伝わらないんですね」流石である。流石科学者である。白衣を着ているだけのことはある。考えてみればそうだ。熱が伝わる迄には微妙に間隔があるに違いない。一瞬だったら熱が伝わる前に離すことが出来るのだろう。しかしである。わたしが感心したのはその説明や理屈にあるのではない。その科学者の気合いであるなり根性であるなり信心深さであるのだ。たとえ熱くないと言われてもあなたは熱せられた鉄の棒に触れることが出来るだろうか。わたしには出来ない。地球上の全ての人間が大丈夫とかいってもわたしは怖くて出来ないと思うのである。わたしにとってはかなりの恐怖をその科学者は「科学的に大丈夫だ」という信仰のもと、実践してみせたのである。物凄い思い込みである。もし誰かが「念じれば空を飛ぶことが出来る」ということを科学的に証明して見せたならば、その科学者は何の苦労もなく空を飛ぶはずであるし、「十二時に鏡を覗けば悪魔が現われる」ことを科学的に証明して見せたならば平気で悪魔と契約して見せるだろうし、「黄色いフォルクスバーゲンを一日十台見れば幸せになる」ことが科学的に証明されれば急いで道路に飛び出し車に轢かれるだろう。なんなら「科学的に証明できたことは実は嘘だった」ということが科学的に証明されればその科学者はいそいそと白衣を脱ぎ捨てるのかもしれないし、いきなり火傷をしだすかもしれないのである。凄い職業である。科学者というのは。
 そこでだ。ここに「科学的」とは無関係の人物がいる。ついでにその人は論理的とも無関係であるし、哲学的や面倒臭い的や音楽的やコンピュータ的とも無関係な人物でもある。母上である。母上はパジャマ姿で仰向けに寝ながら何やら一心に念じているのであるが、何故か腹の上には父上の煙草が置かれている。ついでに手を添えているのであるが、目をつぶりながらも苦悶の表情でなにやら一心不乱にぶつぶつ言っている。その異様な気迫からはただならぬ雰囲気が漂っている。わたしはついに溜まりかねてその姿の由縁を母上に問うた。
「気功や」
 母上の傍らには何かの雑誌が置かれていてそこには気功術の特集があり、そのポーズであるなり、効果であるなりが扇情的に書かれている。母上は父上の煙草に気功によってなんらかしらの力を吹き込もうとしていたらしい。それは禁煙できるようにか、それともおいしく煙草を喫えるようにか、それとも肺癌の促進を願っているのか、それはわからぬのだが、ともかく気功によって念を入れているらしいのだ。呆れたわたしはその場から離れようとしたのだが、母上はわたしを呼び止めこう言った。
「あんたの煙草ももっておいで。わたしが気功してあげるから」
 気功するとはどうするものかはわからないのだが、わたしは取り敢えず母上に煙草を預けた。そして先程と同じことをして煙草をわたしに返してくれた。後程わたしはその煙草を喫ってみたのであるが、それはなんとも言えぬ不快、いや深い深ーい味わいであったのである。効果のほどは二週間以上たたないと解らないらしい。クーリングオフ期間を過ぎているのが気になる。しかもどんなことを気功によって煙草に影響させたのか教えてくれない。楽しみでもあるし不安でもある。
 この気功術とかいうものも「科学的に証明された」のなら例の科学者も仰向けになって腹に煙草を乗せるに違いない。


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