其の2 恐怖とは


 恐怖というのは個人の資質だけではなく、もっと大きく文化によるものだというのは当たり前の話で、例えばの話、西洋人に日本の怪談を聞かせてもそれほど怖がるとも思えないし、日本人にドラキュラだの狼男だのを聞かせても彼らほど怖がるはずもなく、ましてやキョンシーなどというものはお笑いに過ぎぬことは立派な大人、いや立派ではない大人であっても自明のことである。
 しかし、文化的に未分化の子供ならばそういった海のものとも山のものとも城のものともわからぬ妖怪変化に怖がるのも当然で、更には文化なぞものともしない根源的な恐怖にはより敏感であるのも道理である。餓鬼共を怖がらせようと思えば、非常に簡単、電燈を消せばよいのである。誤って電気のスイッチを消そうものなら、阿鼻叫喚の地獄が始まる。こういうときは普段は憎々しい餓鬼共への目も「愛いやつじゃ」とばかりに孫を見る爺のように細くなってしまうのである。
 ところがここに一人の少女がいる。
「今朝起きたら椅子の所に小さな赤い顔した男の子が座っててん」
 ひゃあ、霊感少女なのだ。
「その子わたしの方見てにやっと笑ってるねん」
 あくまでクールにわたしに語るのだ。こ、こんなことこわいぞ!
「そ、それからどしたの」ハクション大魔王に出てくるキャラクターのように続きを聞こうとする。ここまで聞けばもうやめられない。
「しばらく見てたら、消えてしまってん」
 ははは、よくある話じゃないか。類型的な怖い話には慣れておるのだよ。大人を舐めるんじゃないよ。
「で、でもね」詰まりながら少女は続けた。
「その時から椅子の周りを通ると右足のあたりに手がふわっと触るねん」
 ぎえ、リアリティがあるではないか。少女は顔の半分に斜線が入った漫画的手法による暗い表情そのままの顔で助けを求めている。わたしは動転していたが、それは座敷童で人間の害になるものではないし、むしろ幸運を与えてくれるものだ、歴史的には云々、それにその赤い男の子は君の寝ぼけた眼で見たもので、本物かどうかはわからない、なんなら夢の中での話ではないのか、など二三分に渡って取り付かれたように語った。少女は解ったのか解らぬのかどちらとも取れぬ表情で、最悪座敷童であっても悪いことではないということを理解したようだ。
「難しい理屈はどうでもいいけど、そういえば最近ラジオを聴いていたら偶然グレイの曲がかかっていることが多いねん、やっぱり座敷童のお影かなあ」
 この少女は例のグレイのファンである。
 この少女の怖い話には、夢が現実になって襲いかかってくるものや、昔の人形の髪の毛がやけにきれいに整っているとか、教室を出るとき鈴の音がするとか、枚挙に暇がないのであるが、それはまた別の話。


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